自己投資の概念

そもそもデータの根拠がぎりぎりですが。

J-CASTニュース : 一番の関心事は貯金 20代は「かわいそうな世代」なのか

まず20代の段階だと貯蓄と自己投資は対立する概念ではないので、脊髄反射する必要もなし。それ以前に、日本の家計貯蓄率は1970年代半ばをピークに下降の一途をたどっており、06年度は3.2%の過去最低を記録したことが報じられているので、若い世代が突然貯蓄を始めたわけでも、上の世代が若いときに貯蓄をしていなかったわけでもない(参照1参照2)。さらに、「家計の金融行動に関する世論調査」によると、2002年を底に家計の貯蓄は回復する傾向にあるのだが、その要因としては、可処分所得からの貯蓄率の引き上げではなく、株式の評価額上昇などがあるように見える(参照3)。記事にあるように若者が可処分所得を貯蓄に回しているのであれば、こういうデータにはならないのではないか。

ま、あとは与太話だが、20代でせこせこ貯蓄したって、あまり将来のリスクヘッジにはならない。本当に金に困る瞬間というのは、親の資産を頼りにしないといけないくらいの額で訪れる。野村総研が出してる「エンジェル係数」の調査あたりを見るといい(参照4)。それがない人は?というと、運を天に任せて、としか言いようがない。家庭を持つにあたってかかる固定費用は、30代、40代をかけてストックしながらでないと回らない。そうすると、より重要になるのは40前後時点での地位と年収だったりするわけだが、さてそれを可能にするのは、20代のうちに培った余裕か、それとも自分に対する投資か。要は、正しい自己投資が必要ということ。それが出来ない人だっているじゃないか、というのは、社会政策の問題であって、それで自分の責任が100%免除されるかどうかとは別問題。責任は、あるかないかではなく、果たすか果たさないかだけが問われるものなので。

Post Washington Consensusと疎外された共同体

まったくの門外漢としてはどちらも面白かったのだが。

宇野−荻上がともに肯定する「ジャスコ的な文化」に対して、それはそもそも選択可能性のない環境要因なのであり、それによって疲弊した地方の現実を無視している、という批判は、そもそも軸が違う話ですね、というツッコミをとりあえず無視すれば、興味深い対立だと思う。だが、そこでやり玉に挙がる「ネオリベ」なるものは、俗流化された規制緩和格差肯定論のことを指すと思うのだが、そもそもそんな「ネオリベラリズム」は思想として存在しない。多くの人がサッチャーの「社会は存在しない」という発言を引き合いに、規制緩和と自己責任論を一体のものとして語りたがるが、両者はルーツとしては別のもので、ネオリベラリズムの議論の中心は「規制緩和(とその結果としての弱い自己責任)」にあったはずだ。

開発経済学の分野では、単なる自由貿易・市場開放・規制緩和では、もとあった市場での力関係の影響もあって、新興市場が必ずしも健全には育たないこと、むしろ成長のためのリソースが掘り崩されてしまうことが問題とされ、前者のいわゆる「Washington Consensus」に対して「Post Washington Consensus」が主流の考え方になっている。これは、引き続き規制緩和や市場の開放を求める一方で、それを社会工学的に上から一律で押しつけるのではなく、その国や地域にもともとあった関係性や文化を勘案しながら、漸進主義的に改革を進めていこうという発想だ。その中で特に批判されるのは、市場の閉鎖性だけでなく、閉鎖した市場で特定の人びとだけが利益を得る構造が地域内にできあがってしまっていること、いわゆる「ガバナンス」の問題だ。

むろんそれとて「ネオリベ」に他ならないという批判は根強く存在する。そこで批判のよりどころとなるのは、「現実」と「疎外論」だろう。現実とは、こんなに貧乏で苦しんでいる人たちがいるじゃないか、と、要するにそういう話。東京の批評家様がどれだけケータイ小説のサバービア的な「リアリティ」を肯定しようと、「真の現実」では人がどんよりとした目で生活しているのであり、とーきょーのノホホンとしたフリーター暮らしと一緒にしてくれるな!という。

それは実際に大変なのだが、しかし残念なことに、その原因はネオリベだのジャスコだのだけにあるわけではない。むろん大規模店舗が進出してきたことで、資本循環が地域に閉じられたものでなくなり、結果的に地域からの資本流出を招いたという批判はあり得る。けれどそれ以前の問題として、地域内の閉じた経済(商店街的なもの)を支えていたのは、地域の産業が生み出したものではなく、地域の外から政策的に流入した資本だったわけで、そしてその元手になっていたのは、国内の一部の産業・一部の地域の経済成長だったはずだ。その構造を無視して「東京に食い荒らされた地方の現実」を云々すると、それは容易に、自民党的な「中央の紐付き予算」を肯定するロジックへと繋がっていく。過去30年言われてきた「地域の自立」が、中央からの資本流入現象・中央への資本流出増加によって、いよいよ火がついてきたことは確かだが、「タイミングが違う」という批判はあり得ても、規制緩和そのものを批判するのは、本来の地域自立論から言っても筋違いなのではないか。

その筋違いが起きる理由は、ネオリベに対するもうひとつの批判、「疎外論」にあると思う。すなわち、中央による資本簒奪のせいで、私たちは本来あるべき豊かな関係を失い、カネでしか繋がりあえない荒漠とした郊外に住まわされてしまったのだと。宇野がどうやら批判したいらしいサブカルと左翼の結託は、おそらくこの領域で主に生じている。すなわち、豊かな関係の表象として文化的なものが機能し、その文化的表象を元手に政治運動が機能し、「本来あるべき関係」を巡る文化ポリティクスがヘゲモニーを握る。そのことに対する苛立ちは感覚的には理解できるし、文化ポリティクスのヘゲモニー=権益化に無自覚な人びとが、ケータイ小説などを正しく批評できないでいるというのも確かなのだろう。

ま、ゆうてもそんなヘゲモニーなんて存在しまへんで、という冷静な見方もあるのだが、そこを置いて一点指摘するなら、ネオリベラリズムとは、まさにそうした「関係の本来性」を可能にすることを期待された思想でもあった。新左翼が初期マルクスハイエクを同時に支持できるのはそうした理由による。アメリカでは「リバタリアニズム」と「アナーキズム」は、特にベビーブーマーにとっては、関係の本来性を可能にする自由の思想として、ほぼ差異なく受け止められている。彼らにとって自由と平等とは、前者が達成されることで、そこから生まれる人びとの相互扶助によって後者が可能になるという関係の中で理解されており、よく言われがちなトレードオフの関係にはないのだ。

ではなぜネオリベラリズムは批判されるのか。それには、開発主義国家における特殊な事情というものを考慮に入れる必要がある。デヴィッド・ハーヴェイ(2005=2007)が指摘するとおり、開発主義国家は、ネオリベラリズムとまったく異なった意味で、平等主義であり得た。

開発主義国家(たとえばシンガポールをはじめとするいくつかのアジア諸国)は、まったく違う理由からだが、資本蓄積や経済成長を促すのに、国内企業の資本(特に外国資本や多国籍企業の資本)と密接に結びつきつつも公共部門や国家計画を重視している。開発主義国家は通常、物的インフラのみならず社会的インフラにもかなり配慮する。かくして、たとえば教育機会や医療を享受する権利に関してはるかに平等主義的な政策が存在する。一例を挙げれば、国家による教育投資は、世界貿易で競争上の優位性を得るための決定的な必要条件とみなされている。(P.103)

この種の平等関係は、非常に介入主義的であり、ときに抑圧的な機構になりさえする。郊外的な環境要因の抑圧から解放され「本来の関係性」を志向する一方で忘却されがちなのは、そもそもその「本来の関係性」なるものが、誰がどこの党に投票したのかをなぜか全員が知っているような、「雛見沢村的恐怖」と一体のものだったということだ。ウチに対する温情は、そのままソトに対する冷徹さの裏返しでもある。そういうものは、いまでも望まれているのだろうか。

もちろん、それに対して「ジャスコ的なリアリティでいいじゃん」というのも確かに貧しい。というかこの種の議論は、別の議論からの立ち位置を取っただけのつもりが、全体で見るととんでもないところに着地してしまう展開の典型で、ときに結論ありきのイデオロギー論よりも質が悪い。ジャスコでもドンキでもいいのだが、それが「僕らにとって持つリアリティ」を元手に先行世代を批判するなら、同時に同世代に対する処方箋を提示しないと、それこそが別種の権益になるはずだ。世代に対して責任を取るとは、そういう振る舞いであるはずなのだ。

新自由主義―その歴史的展開と現在

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世界を不幸にしたグローバリズムの正体

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自己否定のモメント

話題になっているようだが

 「引きこもり」となる原因は「就職や就労での挫折」が最多で、30〜34歳の年齢層が最も多いことが東京都が行った実態調査で分かった。本人の心理や意識にも踏み込んだ引きこもりの公的な調査は全国初。不登校など学校時代の体験をきっかけとし、若年層が多いとされる従来の見方とは異なる傾向が浮かんだ。

 調査は、都内に住む15〜34歳の男女3000人を住民基本台帳から無作為抽出し、昨年9〜10月に個別に訪問。1388人から協力を得た。うち10人を引きこもりと判断し、別途調査した18人を加えて計28人を分析対象とした。

まず調査手法的には、1000人中10人は「誤差の範囲」で、しかも別途調査したデータを入れて「ひきこもりは30代前半が多数」というのはさすがに恣意的な誘導と言われても仕方がない。むろん、そういったことを突っ込んだとしても、経験的にはそれで正しいのだろうなとも思う。調査というのは、そういった調査設計段階での「カン」の導入によって、それなりに意味のあるものになったりもする。ネットでデータがどうのとか言うのが好きな連中に足りないのは、この種の実地で生まれる経験。ま、あれだって統計の名を借りた俗流社会論であり、ポリティカル・ディスコースなのだからと思って割引いて考えるのが吉。

ところで、

それとは別に気になるのが、記事に対する反応。一方に「自分たちは社会の中で求められていない存在ですよねそうですよね死んでいいですかっていうか死ねばいいんですよね僕なんか」的な自己否定の契機があり、他方でその自己否定そのものが他者から与えられる「バッシング」のせいで生まれているという(ときに過剰な)被害者感情がある。赤木問題や俗流若者論批判の根幹にあるのはそうしたモメントだと思うし、部外者から見てそれがときに迷惑な言いがかりであり、どれだけ幼稚な振る舞いに見えようと、そこには一定の妥当性がある。

そうは言っても、社会の側には「彼らに応答する責務はない」と感じられているのも確かなのだろうけれど。

アクセス制限の「副作用」

というほどのものでもないのだが。

アクセス制限を行う対象として、掲示板サイト「2ちゃんねる」や「アダルト系ブログ」と回答したのは約8割、SNSソーシャル・ネットワーキング・サービス)の「mixi」が5割以上となった。

URLフィルタリングを実施している企業の8割ということなので、全体の動向は分からない。ただ、こうやってアクセス制限がかかると、昼間から2ちゃんにアクセスしているのは勤め人以外に偏ることになる。勤め先で2ちゃんがアク禁になったのは02年頃だったか。同じ頃から「2ちゃんの低年齢化」「厨房化」が、古参住人から聞かれるようになった。当時は専用ブラウザによる特定スレッドのみを巡回するユーザーが増加したことで、2ちゃんねる全体の一体感が失われたなどと言う人もいた。真相は分からないし、データ上はむしろ高齢化しているのかもしれない。しかし2ちゃんを集合知の吹きだまりと呼んでしまうなら、それを支えていたのは、別に2ちゃんなんかあってもなくても困らない「普通の人たち」だったのではないかと思う。

科学の行き着く先

ある本を読んでいて思ったのだが、近年の社会科学における「科学的な精緻化」のベクトルは、どうも次のようなものになっているらしい。すなわち、社会学政治学に近づき、政治学(および法学と法哲学)が経済学に近づき、経済学が心理学に近づき、心理学が脳科学統計学に近づいている。そこには「理論の希薄化」という現象が付随する。脳科学においても、社会心理学的アプローチにおいても、実証の前に必要とされるモデルへの検討が必要となるが、そこでは往々にして素朴な人間学が前提とされる。「人って一般的にそういうものだよね」という理解を元に構築されたモデルの実証プロセスは、結局のところ分化されたシステム間の目に見えない連関を明らかにするのには役に立つが、全体ないし個別のシステムの変動要因を「偶然」とか「結果論」でしか説明できなくするのではないかという気になる。

現代のアナーキズム思想(英米圏中心) - on the ground

リンク先でも紹介されているアナーキズムの現代的潮流が、理論と切れたところで実践を要求するようになっているのも、おそらくは環境悪化や市場によって疎外される「人間的なもの」への無邪気な信頼と、それへの回復の要求の現れなのだろう。20世紀前半の政治学社会心理学、哲学が強調してきた「人間性への疑義」は、そこでは顧みられないどころか、実践への足枷として非難される。例外状態とはおそらく、非日常の日常化というだけでなく、そうした状況に対するメタ言及の封鎖を意味している。

責任倫理と政治

いろいろとまた問題になると思うのだが、

政府は29日、教育再生会議の後継となる新機関を2月中に設置する方針を固めた。再生会議が第1次〜第3次報告に盛り込んだ提言が着実に実施されるかどうかを監視する役割を持たせる。

メンバーが決まるまでは様子見だろうな。正直、このタイミングで再開して大丈夫なのかという気もする。

政治に高尚な理念の議論を持ち込めという話もあるが、政治学の立場からすれば、「政治」とはそうした理念も含めた個別利害の間の葛藤・調整でしかあり得ない。ある理念が実効的な政策の中に反映されるためには、それが政治的な影響力を有するように「政治活動」を行う必要がある。その決断主義なき政治はあり得ないし、政治理念を語った段階で、人は既にそこに踏み込んでいる。ならば、重要なのはいかに高尚な理念を語るかではなく、一貫した責任を持って政治的な場を維持し続けることに他ならない。ある時期だけ元気になったから、自分の派閥の影響力が強くなったから、さあ政論を始めようというのが一番よくない。

おわび - シンポジウムのまとめについて

自分用のメモとしてアップした以下のまとめですが、思いのほか注目されたようなので、今後、討議が刊行物として出版されるといった事情に鑑み、自主的な判断において、東氏・北田氏からの基調報告と、討議の後の質問パートを除いて削除しました。ご了承ください。