Post Washington Consensusと疎外された共同体

まったくの門外漢としてはどちらも面白かったのだが。

宇野−荻上がともに肯定する「ジャスコ的な文化」に対して、それはそもそも選択可能性のない環境要因なのであり、それによって疲弊した地方の現実を無視している、という批判は、そもそも軸が違う話ですね、というツッコミをとりあえず無視すれば、興味深い対立だと思う。だが、そこでやり玉に挙がる「ネオリベ」なるものは、俗流化された規制緩和格差肯定論のことを指すと思うのだが、そもそもそんな「ネオリベラリズム」は思想として存在しない。多くの人がサッチャーの「社会は存在しない」という発言を引き合いに、規制緩和と自己責任論を一体のものとして語りたがるが、両者はルーツとしては別のもので、ネオリベラリズムの議論の中心は「規制緩和(とその結果としての弱い自己責任)」にあったはずだ。

開発経済学の分野では、単なる自由貿易・市場開放・規制緩和では、もとあった市場での力関係の影響もあって、新興市場が必ずしも健全には育たないこと、むしろ成長のためのリソースが掘り崩されてしまうことが問題とされ、前者のいわゆる「Washington Consensus」に対して「Post Washington Consensus」が主流の考え方になっている。これは、引き続き規制緩和や市場の開放を求める一方で、それを社会工学的に上から一律で押しつけるのではなく、その国や地域にもともとあった関係性や文化を勘案しながら、漸進主義的に改革を進めていこうという発想だ。その中で特に批判されるのは、市場の閉鎖性だけでなく、閉鎖した市場で特定の人びとだけが利益を得る構造が地域内にできあがってしまっていること、いわゆる「ガバナンス」の問題だ。

むろんそれとて「ネオリベ」に他ならないという批判は根強く存在する。そこで批判のよりどころとなるのは、「現実」と「疎外論」だろう。現実とは、こんなに貧乏で苦しんでいる人たちがいるじゃないか、と、要するにそういう話。東京の批評家様がどれだけケータイ小説のサバービア的な「リアリティ」を肯定しようと、「真の現実」では人がどんよりとした目で生活しているのであり、とーきょーのノホホンとしたフリーター暮らしと一緒にしてくれるな!という。

それは実際に大変なのだが、しかし残念なことに、その原因はネオリベだのジャスコだのだけにあるわけではない。むろん大規模店舗が進出してきたことで、資本循環が地域に閉じられたものでなくなり、結果的に地域からの資本流出を招いたという批判はあり得る。けれどそれ以前の問題として、地域内の閉じた経済(商店街的なもの)を支えていたのは、地域の産業が生み出したものではなく、地域の外から政策的に流入した資本だったわけで、そしてその元手になっていたのは、国内の一部の産業・一部の地域の経済成長だったはずだ。その構造を無視して「東京に食い荒らされた地方の現実」を云々すると、それは容易に、自民党的な「中央の紐付き予算」を肯定するロジックへと繋がっていく。過去30年言われてきた「地域の自立」が、中央からの資本流入現象・中央への資本流出増加によって、いよいよ火がついてきたことは確かだが、「タイミングが違う」という批判はあり得ても、規制緩和そのものを批判するのは、本来の地域自立論から言っても筋違いなのではないか。

その筋違いが起きる理由は、ネオリベに対するもうひとつの批判、「疎外論」にあると思う。すなわち、中央による資本簒奪のせいで、私たちは本来あるべき豊かな関係を失い、カネでしか繋がりあえない荒漠とした郊外に住まわされてしまったのだと。宇野がどうやら批判したいらしいサブカルと左翼の結託は、おそらくこの領域で主に生じている。すなわち、豊かな関係の表象として文化的なものが機能し、その文化的表象を元手に政治運動が機能し、「本来あるべき関係」を巡る文化ポリティクスがヘゲモニーを握る。そのことに対する苛立ちは感覚的には理解できるし、文化ポリティクスのヘゲモニー=権益化に無自覚な人びとが、ケータイ小説などを正しく批評できないでいるというのも確かなのだろう。

ま、ゆうてもそんなヘゲモニーなんて存在しまへんで、という冷静な見方もあるのだが、そこを置いて一点指摘するなら、ネオリベラリズムとは、まさにそうした「関係の本来性」を可能にすることを期待された思想でもあった。新左翼が初期マルクスハイエクを同時に支持できるのはそうした理由による。アメリカでは「リバタリアニズム」と「アナーキズム」は、特にベビーブーマーにとっては、関係の本来性を可能にする自由の思想として、ほぼ差異なく受け止められている。彼らにとって自由と平等とは、前者が達成されることで、そこから生まれる人びとの相互扶助によって後者が可能になるという関係の中で理解されており、よく言われがちなトレードオフの関係にはないのだ。

ではなぜネオリベラリズムは批判されるのか。それには、開発主義国家における特殊な事情というものを考慮に入れる必要がある。デヴィッド・ハーヴェイ(2005=2007)が指摘するとおり、開発主義国家は、ネオリベラリズムとまったく異なった意味で、平等主義であり得た。

開発主義国家(たとえばシンガポールをはじめとするいくつかのアジア諸国)は、まったく違う理由からだが、資本蓄積や経済成長を促すのに、国内企業の資本(特に外国資本や多国籍企業の資本)と密接に結びつきつつも公共部門や国家計画を重視している。開発主義国家は通常、物的インフラのみならず社会的インフラにもかなり配慮する。かくして、たとえば教育機会や医療を享受する権利に関してはるかに平等主義的な政策が存在する。一例を挙げれば、国家による教育投資は、世界貿易で競争上の優位性を得るための決定的な必要条件とみなされている。(P.103)

この種の平等関係は、非常に介入主義的であり、ときに抑圧的な機構になりさえする。郊外的な環境要因の抑圧から解放され「本来の関係性」を志向する一方で忘却されがちなのは、そもそもその「本来の関係性」なるものが、誰がどこの党に投票したのかをなぜか全員が知っているような、「雛見沢村的恐怖」と一体のものだったということだ。ウチに対する温情は、そのままソトに対する冷徹さの裏返しでもある。そういうものは、いまでも望まれているのだろうか。

もちろん、それに対して「ジャスコ的なリアリティでいいじゃん」というのも確かに貧しい。というかこの種の議論は、別の議論からの立ち位置を取っただけのつもりが、全体で見るととんでもないところに着地してしまう展開の典型で、ときに結論ありきのイデオロギー論よりも質が悪い。ジャスコでもドンキでもいいのだが、それが「僕らにとって持つリアリティ」を元手に先行世代を批判するなら、同時に同世代に対する処方箋を提示しないと、それこそが別種の権益になるはずだ。世代に対して責任を取るとは、そういう振る舞いであるはずなのだ。

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