ポストモダンの自動人形
良くも悪くも、「ブレない人」というのは色んなことを考えさせてくれる。
さしあたって以下を引用しておこう。
われわれはいま見たような、二つの知を区別するという解釈に従うわけにはゆかない。われわれにとっては、その解釈はそれが解決しようとしている二者択一の問題を再生産しているに過ぎず、しかもこの二者択一の問題そのものが、いまわれわれの研究対象となっている社会に対してはもはや有効性を失っており、またその問題の立て方自体が、もはやポスト・モダンにおける知のもっとも生き生きとした様態には適合しない、対立による思考に属していると思われるからである。技術やテクノロジーの変化に助けられた資本主義の現段階における経済の《再発展》は、すでに述べたように、国家機能の重大な変化と対をなすものである。この症候群から出発して形成される社会のイメージは、二者択一によって表現されていたアプローチを徹底して見直すことを要求するだろう。それは簡単に言えば次のようになる。すなわち、社会の制御機能つまり再生産機能は、将来にわたってますますいわゆる行政官の手を離れて、自動人形の手に委ねられることになるだろう。よい決定を得るためには、その自動人形が多くの情報を記憶していなければならず、結局、情報を自由に手に入れることが重要な役割を果たすことになるだろう。情報を自由に扱うことはあらゆる種類の専門家の管轄に属することになる。そして、そうした決定者の階級が支配的な階級となるだろう。この階級はもはや伝統的な政治階級によって形づくられるのではなく、企業の経営者、高級官僚、大規模な職能団体・組合・政治団体・宗教団体の指導者などが混在する階層によって形づくられるのである。(J=F. リオタール『ポストモダンの条件』邦訳41-42P、強調引用者)
政治が友と敵を分かつ振る舞いだとすれば、ポストモダニストは、敵でもあり友でもあるような人々と、自動人形に放り込むべき情報を巡ってやりとりするような過程を重視する。それは狭義の政治を離れ、様々なアクターの混在する言説空間を、権力の場へと移し替えていく。萱野と東の対立は、そのベースとなる秩序維持の権力=暴力の独占をどう見るかという点にある。
おそらく、暴力を呼び出す可能性が担保されていることだけに着目すれば、ポストモダン社会は近代国家の秩序装置の上でしか可能にならないという話になる。多くの社会科学者がそれに同意するだろう。しかし私は、現実問題としての「呼び出し頻度」や「呼び出しにかかるコスト」の問題は、そこで度外視すべきではないだろうと思う。コストですべてが計算されるなら、本当に急病のとき以外には救急車を呼ぶな、から、本当に殺されそうになっているとき以外に警察を呼ぶな、までは、そんなに距離があるとは思えない。そうした予測が前提にされるようになれば、人は警察ではなく民間警備会社を頼ろうとか、地域で自警団を作ろうとか、子供は親で金を出し合ってスクールバスで送り迎えしようとか考えるようになる。リオタールのビジョンの先にあるのは、そうしたリトルブラザー的自動人形が乱立し、無数の決定を個人に投げ返すような社会だろう。それに耐えられなくなるとき、私たちは決定そのものを自動人形に委ねたいと願うようになるのではないか。
ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))
- 作者: ジャン=フランソワ・リオタール,小林康夫
- 出版社/メーカー: 水声社
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