相対主義は相対化できるか

こないだの論争がらみでいろいろ見ていて、少し気になったことを。

まあ、しかし、こんな議論はすべて意味がないのです。なぜなら、いまのブログ環境においては、あることを主張したいときに、検索エンジンを駆使して自分に都合のいいようにデータを並べ、本の一節とかをどっかから取ってきて、「ほらAはBだ」「AはBじゃない」と言うことはいくらでもできるからです(ぼくがやったのがまさにそういうことですw)。よく考えたら、そんなことは自明でした。

ポストモダン論とかネット社会論の一部で言われるようになったこうした現象は、実は割と根の深い問題なのではないかと思う。南京問題をはじめとして、ネットでは歴史問題やマスメディアの報道を巡って、それが「真実」か否かというアジェンダが持ち上がりがちだ。90年代に修正主義論争が持ち上がった際には明確に存在していた「戦後史観・的なもの」に対するカウンター、すなわち政治的立ち位置の問題はそこではすっかり薄れ、主張のための主張、プライド保持のための論争が行われているようにも見える。議論がヒートアップするほど、「そんな問題、世の中がひっくり返るほど重要じゃないんだから、別にどっちだっていいんじゃね?」という突っ込みの余地は削り取られていくのである。

この出来事の起点には、間違いなくポストモダニズムが称揚した「相対主義」がある。近代が自明視してきた価値観、性別役割分業だとか、それと連動した性モラルだとか、主流文化はサブカルチャーや土着文化より偉いとか、それらに対するカウンターとして、「近代は自明じゃない」ということを主張する道具としてのポストモダニズムには、ある時期までは確かに意味があった。ある時期とはつまり、世の中の多くの人が(疑問を持つ人がいたとしても)それを「当たり前(だとみんなも思っているはずだ)」と信じられた時代までということだ。

だが(おそらくポストモダニズムの流行とは無関係に)、高度成長の終焉なり、第三世界の成長なり、個別性を重視するサービス経済の進展なりといった出来事が社会の中心に据えられるようになって、そうした価値の自明性は失われてしまう。そう考えれば、ポストモダニズムが一般の人々の間にまで「流行」してしまうという事態そのものが、既に人々の間に「もう近代も終わりだよね」といった感覚が広がっていたことの証左であるとすら言える。大澤真幸ではないが、「近代はもう終わる」とみんなが思った時点で、〈近代〉は終わっていたのだ。

だが、かかる「落差」を前提にした議論は、歴史上一回しか起こりえない。〈大きな物語〉を相対化するために持ち出されたポストモダニズムは、批判対象が小さくなるにつれて、それそのものも別種の〈大きな物語〉に見えるという事態が生じる。端的に言うと、相対主義の相対化が生じるのである。

それで、「事実が求められていない」件だが、その理由を端的に言えば、今がポストモダンだからである。最近は安直に理解したポストモダン論を一括りに罵倒するような言論が増えているように見えるが、その一因は多分、ポストモダン論に新鮮味が失われたからだろう。なぜ新鮮味が失われたかと言えば、それはポストモダンはもう「来るべき時代」ではなく、今・この時間になってしまったから、目の前にある当然の現実のままになってしまったから、だ。

当たり前のことだが、相対主義の相対化は、客観的に見れば相対主義の極地である。物事を相対的に見ようと絶対的に見ようと「そんなの関係ねえ」と言えてしまうこと、それが究極の相対主義であるわけだ。だが、主観の水準においては「そんなの関係ねえ」と言っているその人は、相対主義を相対化して、絶対主義の境地に至ってしまう。論理的には不可能であるはずのこうした現象は、発話者にとって強い内的な合理性を有しているがゆえに、非常にやっかいだ。

いまの日本だとそれはネットで噴き上がる人々ということになるのかもしれないが、この困難は世界的には、まず冷戦後ヨーロッパの民族主義問題として現れた。歴史修正主義と並んで、90年代ヨーロッパの知的課題は、相対主義が完成した後の世界に跋扈する「絶対的なもの」を、どのように取り扱うべきか、という点が中心になっていたとすら言える。

こうした状況で出てくるのが、たとえばラクラウとムフが主張した「ラディカル・デモクラシー」だったのではないか。ラディカル・デモクラシーの特徴は、絶対的な信仰を有した人々の、民主主義や平和に対する挑戦を、民主主義の危機ではなく、民主主義が健全に機能している証拠だと捉えるところにある。ある立場の人と、別の立場にある対抗者(Adversary)が、同じルールを共有しながら議論し続けることは、両者の落としどころをつけて意見を一つに集約するより、民主的だというのが彼らの主張だ。

もちろん、ではそのルールを共有しない人はどうするのか、という課題は残るし、実際に同時多発テロ以降、ムフは自らの主張の一部を修正せざるを得なくなったと私は見ているが、ともあれ、コンセプトとしてはラディカル・デモクラシーは「相対主義の相対化」以降の社会における、ひとつの有効な回答であり得ると私は思う。

しかしここでもうひとつやっかいなのは、冒頭に引用したとおり、情報化とそこから引き出される情報の増大・検索の効率化によって、それぞれの人々の立場の「絶対性」を保証しうるリソースは無限に引き出しうるにもかかわらず、〈近代〉の政治システムは、ひとつの方向で政策を決定しなければならないということだ。これはポストモダニズムが放置した重要な問題のひとつである。人間の価値観が変わったところで、人々が生きている社会の仕組みはそれに追いつく速度では変化しない。情報化やグローバル化による「国家の退場」は長年語られているが、前のエントリで挙げた国連中心の世界枠組みを含め、ついぞ実現する気配はない。

長い時間をかければ解決するかもしれないこのギャップは、しかし現状においてはさしあたり、何らかの政策を決定しなければならない場面において、いろいろと困った問題を生み出す。歴史問題などは、専門家以外にとってはプライドの問題でしかないかもしれないが、たとえば騒がれているネット規制の話など、多様なアクターを「賛成」「反対」の枠組みに持ち込んで数の勝負をかけようとするほど、当初の主張と無関係な「落としどころ」に引きずられることになってしまいそうな予感がしている。それこそ反対派の一部には強硬な「ネット自由至上主義者」がいるのかもしれない。だが彼らがその理想ゆえに「絶対勝たなければならない」と考えるほど、彼らは「国ではなく民間が積極的にフィルタリングを進めるべき」とか「ネットは自由が原則だが学校裏サイトは死んでも認めない」といった人々とも手を組まされることになるのである。

この手の話は練習問題みたいなものだし、現実の問題を考えるにあたってはいまのところ別に何の役にも立たない。だが、単純に相対主義を唱えるだけでもだめ、しかし絶対的な信仰を持つ人々が、めいめいに好き勝手なことを言っていても何も決まらないというジレンマが、あらゆる場面で生じていることを理解するだけでも、「その次」の制度設計に向けたヒントは導きうるはずだ。

政治的なるものの再興

政治的なるものの再興

民主主義の逆説

民主主義の逆説

ナチオンから遠く

お昼休みくらいゆっくりご飯がたべたいです。

両者の違いは、たぶん「ネーション・ステート」を支える「ナショナリズム」なるものの認識のズレに由来しているのではないかと思う。東氏がそれを、血族的同胞感情に基づく一体感、つまりフランス社会主義的に捉えるのに対し、finalvent氏の方は、ヘーゲルドイツ国法学的な意味で、つまりそうした血族感情を止揚するものとして捉える(だからヘーゲル市民社会に任せたって福祉なんて無理だぜ、と考えた)。

ただ東氏の問題提起は、それをさらに踏まえても、ネーション・ステートなんてあらかじめ定められたメンバーとそうでないメンバーを区分して守るだけでしょ、というところにある。これは社会科学的には、「市民権」の問題として知られる。市民権は、「普遍的な人権概念」のようなものを参照しながら得られる実体としての諸権利のことを指す。プログラムで言えばクラスとインスタンスの関係にあたるのだろうか。人権概念はあくまでクラス*1であって、実際に行使されるのは、あるロジックの中で人権概念のコピーとして用いられる市民権だ。なぜこうしたことが必要になるのかというと、(1)クラスとしての人権を直接現実に行使する場合、それは非常に現実的に定義せざるを得ず、クラスそのものが誤っていたときに「他の可能性」が想起できなくなる、(2)現実的に権利の行使を可能にする、ないし権利侵害を禁止するのは、暴力独占装置としての国家しか、主体として想定し得ない、というふたつの理由による。

しかしながら近年、特に(2)の条件が緩和されたことで、この前提に揺らぎが生じている。情報社会の監視ツールもその一部にカウントできるだろう。国家以外にも権利保障の主体としての資格がありうるなら、わざわざクラスとインスタンスを区分する必要はないのではないか、という議論が、いわゆる「グローバルな正義」論の背景にある。国連が強大な権力を持って、国家による人権侵害も含めて取り締まりましょう、と。いまは国連独自の軍隊というのは存在しないので、名目上グローバルな正義といっても、湾岸戦争からイラク戦争に至るまで、特定の国家の、特定のメンバーを保護するのが実際のところ、という話はあるのだが、暴力の独占による「市民権の人権化」、つまりクラスの直接の公使を理想とする議論は、わりとヨーロッパあたりで根強い。『沈黙の艦隊』ってすごかったのね、っていう話かな。

*1:あるいはメンバ関数としての諸権利概念の集合体

反証の作法

先日、とある本を立ち読みしていて、あまりの出来の悪さに頭を抱えた。同時に、ネット時代になって「データを用いて文章を書く」ことの問題も痛感させられた。その本では、著者が取り上げた分野について論じているもののうち、こちらの議論は根拠のない決めつけで、あちらの議論にはそれを覆すデータがある、といったことがこれでもかと並べられている。その膨大なデータ量は、反論の材料としては十分すぎるほどで、普通に見れば「よく調べたなあ」と言ってもらえるものだろうと思った。

では何がダメなのか。要は、著者が批判している議論より、自分が出してきた議論の方が信頼に足るという根拠が、どこにも示されていないからだ。確かに、データがないものよりはデータがあるものの方が信頼性はあるだろう。では、そのデータがねつ造だった場合には?著者が言っているのは、あちらの人はこう言っているが、別の人はこう言っている。自分は後者の言うことの方が信頼に足ると「思う」ということでしかない。

データがある議論を反証するにふさわしいものだということを証明するためには、何をすればいいのだろうか。たとえば「ゲーム脳」の場合、発端となった論者は、脳波を測定し、ゲームとボケ状態の相関は明らかだと主張していた。それに対して反論する論者は、相手の理論上の欠陥、測定機器の問題などを指摘したわけだが、さて、脳科学に対して素人の私たちが、反論の方を支持する理由は何だろうか。端から「ゲーム脳なんて嘘っぱち」という予断をもって、「こうして反証する専門家がいるからそちらの方が正しいはずだ」と思いこもうとしていないだろうか。

もちろん、こうしたバイアスで判断してしまうというのは仕方がないことだし、多くの人は自分の専門でない分野については、「どうやらこちらの方が確からしそう」という程度の材料で、支持・不支持を決めるほかない。だが、いみじくも誰かの言っていることを棄却して、別の人の言っていることを正しい言説として採用する以上、その根拠は示されなければいけないはずだ。これは別に、その本の著者に限ったことではない。

学問の世界では通常、あるデータの方が信頼に足ることを根拠づける場合、以下のような手法を採用する。

(1) 追試を行う

同じデータを用いて同じように測定すれば、同じ結果が出るというのが科学の基本だ。実験が可能な分野の場合は、測定する環境を完全に同一にして追試を行う。ネイチャーなどに掲載された新しい業績も、いきなりは信頼されない。多くの他の研究者が同じ結果を測定できたとき、初めてその人の主張は「正しい」と認定される。ちなみに同一環境での追試がほぼ不可能である場合が多い社会科学や心理学においても、サンプルを変えて何度か測定してみるとか、元のデータを入手して、同じ分析手法で分析してみるといった手段があり得る。社会科学の場合、SSJDAのようなところに利用申請をすれば、個票単位で生のデータを取得できる(参照1)。

(2) その論文をどのくらいの人が引用しているかを確認する

自分で追試が困難なデータの場合(というかそっちの方が多いのだが)、その元となったデータが掲載された論文が、どの程度、他の研究者によって引用されているかということを指標にする場合が多い。自然科学の分野では、引用されない論文などゴミ扱いだが、社会学などの分野でも、近年では助成金や大学のランク付けのために、被引用数を重視する傾向が強くなっている。被引用数は、大学図書館の端末などからWeb of Scienceにアクセスして検索する。ちなみに自然科学での被引用数を元にした大学ランキングはトムソンサイエンティフィックが公開している(参照2)。もひとつちなみにGoogleの検索順位表示アルゴリズムのモデルになったのも、この「言及されている奴がエラい」という発想。

もちろんこの指標に問題がないわけではない。被引用数はどうしても研究者の関心が高い直近の研究で多くなる傾向にあるが、日本の貧困に関心を持つ研究者は、やはり日本に偏っているわけで、世界中の研究者が関心を持つテーマよりはどうしても数が少なくなる。だが、元のデータを引用した論文で、既にデータが反証されていたり追試されていたりする場合もあるので、それらを確認するためにも引用論文にあたることが重要である。

(3) 査読誌に掲載されたものであるかを確認する

通常、学術的な研究を発表する場は、書店で売られている本ではなく、学会などが発行する機関誌になる。そこで論文を掲載するためには、何名かの同じ分野の研究者に査読をしてもらい、掲載許可をもらわなければならない。逆に言えば、そうした査読誌に掲載されていないデータの場合、執筆者が勝手に主張しているだけで、学会によって認められたものではない、恣意的なものである可能性がある。各学会のリストは国立情報学研究所の学協会情報発信サービスから検索できる(参照3)。

査読誌に掲載されたわけではない論文でも、たとえば権威ある研究者が主筆者となった書籍に掲載された論文ならば、相応の信頼性があると見なすこともできる。ただしこちらの場合、書籍を出版する目的がその主筆者の学会内での地位確立だったり、弟子に業績を作ってやることだったりする場合があり、データに対する検証が甘くなる場合もあるので注意が必要だ。

(4) 同じテーマについて書かれたものを検索する

学術誌以外にも、この世には様々な媒体が存在し、多くのテーマを扱っている。学術的ではないし、そもそも学術的に取り上げるに値しないテーマだが、社会的に注目を集めているようなものの場合、論壇誌などの一般雑誌で反論・批判が行われている場合がある。そうしたものを検索するには、雑誌や分野ごとに用意されているデータベースを利用するのがいい。よく使われるのはGeNiiだろうか(参照4)。その他、図書館の端末から様々なデータベースにリンクされている場合があるのでそれを確認してもよい。ここでは実践女子大のページが見つかったのでそちらにリンクしておく(参照5)。

難しいものから簡単なものへと順番に並べてみたが、あるデータが信頼に足るかどうかを確認するためには、最低でもこれだけの手順が必要になる。もちろん、確認するまでもなく、論理が破綻しているとか、常識で判断可能なミスというのもある。だが、理論研究などのように、データより先に抽象的な枠組みが提示される場合、実証的な検証が追いついていなくても、それはその理論がトンデモだということを、必ずしも証明してはいない。「まだ実証されていない」というだけのことだ。データがないことを鬼の首を取ったようにあげつらう輩をときどき見かけるが、そう思うのなら自分で実証してみればいい。それすら経ずにある主張を学術的に棄却できると考えるのは、単なる怠慢である。その人自身の好き嫌いの話だというのなら別だが。

さて、くだんの著作だが、ざっと見る限り残念ながら、こうしたプロセスを経ているとは思えない主張が満載だ。せいぜい、自分が調べられる範囲で得た情報の中では、こちらの方が確からしそうだ、という思いこみの判断を、どうにか情報量で中和しようとしている、という程度だろうか。むろん書店に流通する書籍なのだし、と甘く見ることもできるが、であれば著者が批判する議論も、同様に甘く見てあげるべきだろう。

残念なことはふたつ。ひとつは、ある情報網を組み上げて別の情報を否定するという振る舞いが、おそらく著者の一番嫌いなポストモダニズムと同様の落とし穴に落ちているということだ。ポストモダニズムは、科学の絶対性を批判し、価値相対主義を主張したとされている。実際には政治的に無価値とされている「矮小なもの」を顕在化するためにそのようなことを言ったに過ぎないのだが、ともあれその価値相対主義は、結果として「戦争中の虐殺だってゲーム脳だって、あるという人とないという人がいるんだから、どっちもどっちじゃないか」というズブズブの相対主義に陥ってしまった。左翼的な価値観で「ひっくり返し」をやる道具だったポストモダニズムが、左翼的な価値のひっくり返しに用いられるということに気づいた人々は、一斉にポストモダニズムから離反する(いわゆる「ポストモダン左旋回」)。いい政治目的に照らした相対主義は許されるが、悪い目的に利用されるなら許せないというダブルスタンダードが、そこで生じる。こうした醜い転向を避けるためにこそ、科学的基準というものが重要になるはずなのだが、それが踏まえられていないのだ。

ふたつめ。こちらの方がより残念だが、なぜその著者の主張は一定程度受け入れられるのか。それは、著者が批判する対象が、多くの人にとって直感的に間違っていると理解可能なものだからだ。どう考えてもおかしいのに、世の中でまかり通っている奇妙な主張を批判するためなら、多少の脇の甘さは許してやるか、と思った人々が、政治的な目的で著者の言動を支持しているのではないか。だがそれは、自分もその批判対象に入れられそうだとなると、一斉にその支持を失ってしまうということでもある。なぜなら、その主張の内容ではなく、政治性によって認められていたに過ぎないからだ。実際その著者は、既に幾人かの研究者によってやり玉に挙げられつつある。世の中でものを書くなら、敵の選び方には慎重にならなければいけないという当たり前の処世術さえ教えてもらえないほど、著者の周囲は貧しいのだろうか。それとも、取り巻き連中もその著者を使って一儲けして、使い捨ててやればいいと思っているのだろうか。

もし著者が今後も、ある主張の誤りを批判し、読まれるべき主張を取り上げていきたいと思うなら、悪いことは言わないから、いますぐ大学か大学院に入り直して、専門的な指導教員のもとで、科学的批判のなんたるかを学んだ方がいい。もちろん、毒舌ライター的な立場で生きていくという道もないわけではないが、それにしては面白みがなさ過ぎる。少なくとも、「これであいつもこいつもやっつけちゃいましたね!痛快すね!」としか言ってくれない連中しか、周りにいないのなら、そのことに危機感を持つべきだと思う。

大学院重点化と人材の定義

これねえ、倍率は実際問題じゃないのよ。それって教員に対する指導報酬が確保できるかどうかの問題でしかないから。

文部科学省によると、全国の博士課程の入学定員に対する志願者の平均競争倍率は、3年度に開始した「大学院重点化」計画以降、上昇を続け、8年度には1.08倍を記録。15年度まで1倍を超えていたが、その後、漸減を続け、18年度には0.9倍まで低下。そして19年度は計2万3417人の入学総定員に対し、志願者は2万773人で競争倍率は0.89倍に落ち込み、5年度以降初めて0.9倍を割り込んだ。

ちなみによくロストジェネレーション問題で、高学歴ニートも同じ扱いにされることが多いのだけど、話としてはまったく別。確かに就職がないから緊急避難的に院進学した手合いはいたし、それが大学院重点化と重なってしまったために、無駄に院生を抱え込むことになったのは事実だけれど、別に彼らは騙されて進学したわけじゃない。少なくとも、他に道がなくて不安定でも低賃金でもいいからとフリーターになった人と、進学して修了したのだから働き口を確保してくれないと困る!と訴える人は、同じ立場ではない。

指摘されるべきは文科省と企業と大学の責任で、要するにこの間、大学院を出ていても単にコストが高いだけで新率と技能は同じとしか見なされないような雇用環境が変わらなかったことが最大の問題。文科省はそこまで財界にアピールすることと引き替えで大学院重点化を進めるはず(べき)だったし、企業の側も、確保すべき優秀な人材像として、専門スキルを持った人を使う体制を組めなかった。何より大学院教育において、従来型の研究者育成プログラムの中での善し悪しの物差ししかもてなかった教員は、就職指導をまったくやろうとしなかった。

定員割れと聞いて、文科省ざまぁと思う向きもあるのだろうが、私は逆に危ないと思う。それは、専門的な指導を行えば優秀な技能を発揮できたかもしれない人間が、目先の安定を志向して大学院進学を諦めたということを意味するからだ。そうした人々は、既存の企業の環境の中で、人並みのことをしていればいいという形で飼い殺しにされる。

もうひとつ、大学院重点化の中で押さえておくべきポイントに、海外からの留学生の問題がある。進学を隠れ蓑に出稼ぎに来る人間が多いのはどこでも同じなのだが*1、本来なら優秀な留学生というのは、日本企業で働くための予備段階として位置づけられるべきものだ。教育コストを一部日本で負担することで、海外の人材を日本の中に囲い込むというわけだ。だが、アウトプットが確保されていない中での留学生受け入れは、育成コストだけを負担し、本国や他の国にせっせと人材を流出させることになる。

教育とは労働者を作るためのシステムである、という当たり前の認識が持てなければ、この状況は変わらないだろう。心が豊かになったくらいで、人は飯を食えないのだ。

*1:ロンドンでも電話ボックスの中に、日本人留学生が売春相手を求める張り紙をしていたりした。

いろんな学者が夫婦仲について語る

  • 文学者は、夫婦の仲が崩壊する作品に名作が多いと言う
  • 歴史学者は、夫婦の愛は近代の産物に過ぎないと言う
  • 文化人類学者は、一夫一婦制は世界共通の文化ではないと言う
  • 脳科学者は、愛は三年で終わると言う
  • 心理学者は、健全な夫婦仲とは愛情と打算の混合物であると言う
  • 法学者は、夫婦とは愛情関係ではなく法的な契約だと言う
  • 社会学者は、近代的夫婦を可能にしたのは家父長制だと言う
  • 統計学者は、離婚原因の1位は「性格の不一致」であると言う
  • 経済学者は、夫婦仲が悪くなるとストレス発散のため支出が増えると言う
  • 宗教学者は、人類愛は夫婦愛にまさると言う

ブロガーはそれらをすべて読んで、結婚なんてするもんじゃないと結論を出す。

社会企業家と虚偽意識

週末に読んだ本から2冊。

まずは城繁幸の新刊。大部分はWebでの連載を元にしたインタビュー。ところどころにコラムを挟みつつ、「昭和的価値観」を脱し、自分なりのキャリアを積み上げたり、独立した人たちを紹介している。著者の基本的なメッセージは、いい学校→いい会社→いい人生という昭和的価値観に凝り固まった連中が日本をダメにしている、もっと雇用を弾力化し、能力のある人をきちんと評価しない会社からはとっとと逃げ出して、自己責任で人生設計をできるようにするべきだというものだ。そのために城は、賃下げや降格など、労働条件の不利益変更を可能にする「劇薬」さえも肯定する。もらうべきでない奴から、報酬を取り上げるためだ。

こういうものを読むと、そろそろロスジェネ論も成熟してきたのかなと思う。というのも、こうした方向に納得しない手合いもかなりいるのではないかと思われるからだ。たとえば雨宮処凜なんかは、『中央公論』4月号での佐藤優との対談を読む限り、自分(たちロスジェネ)は、常に社会からダメだダメだと言われ続けてきて自信を失っているという思いがあるから、「もらうべきでない奴に報酬を与えるのは悪」とする城の見解に、完全には同意できないだろう。自分が「もらうべきでない奴」と断じられたときに、言い返せないことの恐怖を知っているからだ。

もちろん城も弱者を切り捨てろと言っているわけではない。グローバルな環境に合わせた自己責任の環境を作らないで、セーフティーネットだけを準備するのは意味がないというのが彼の主張だ。だが、「企業が雇用を流動化したせいでロスジェネが使い捨てられた」というのと、「企業が雇用を流動化しなかったせいでロスジェネが割を食った」というのは、話として真逆だ。実際には、「企業が正社員の雇用を流動化させないために、ロスジェネを流動化したせいで彼らが割を食った」のだが、前段が問題だと考えるか、後段が問題だと考えるかで、処方箋の方向も真逆を向く。先にセーフティーネットを準備しないと自己責任も取れないとする人々と、それでは自己責任で人生を選択することを阻害するという立場での対立が、いよいよロスジェネの中から出てくるのかもしれない。

というより、そこまでいかないとロスジェネ論に実りがあったとはいえないだろう。現実的には、実力主義でいける人と、それが無理な人と、世代と関係なく貧困に陥っている人で異なる処方箋が提示されるべきだし、その一部に対する処方箋を提示したからといって、別の存在を無視していると糾弾するのはお門違いというものだ。その意味で、城と雨宮を同じ「ロスジェネ論」の中に入れてしまうのは乱暴だと思う。

ただ難しい点もある。既に知識人・研究者の議論の中心は、ロスジェネも含めた「貧困問題」をどのように政策に還元していくかという方向にシフトしており、ありがちな「ロスジェネのルサンチマン論」からは一定の距離を置き始めている。それとロスジェネ内での差異が強調されていくプロセスが並行すると、新左翼と同じ内ゲバの歴史が待っていることは想像に難くない。「実力主義とか言うお前はネオリベの手先だ!」とか、「バイトの口があるくせに無職の俺の気持ちが分かるとか言うな!」とか、「マスコミと学者の言ってることは現場を知らない嘘っぱちだ!」とか。要するに、相手をしてくれるのが自分たちしかいなくなってしまうわけだ。

自分たちが本当に「ロスト」されるかもしれないという不安は、城の本の最後にも出てくる。景気と雇用が回復して、正社員として会社にしがみつく「昭和的価値観」に染まった若者が登場することで、ロスジェネだけが「自己責任」を強いられ、上と下から挟撃されるのではないかという危機感を表明するロスジェネ論者はほかにもいる。でも、それはほんとうに正しいのか?ということで2冊目。

裸でも生きる――25歳女性起業家の号泣戦記 (講談社BIZ)

裸でも生きる――25歳女性起業家の号泣戦記 (講談社BIZ)

バングラディシュのジュートという麻で作ったバッグや小物の販売を通じて、現地に自立支援を行う社会的企業マザーハウスの代表・山口絵理子の、起業に至るまでの自伝。たまたま本屋で見つけたのだが、ドラマティックな半生を「泣き虫だけどがんばった」という風にパッケージしているあたりとか、開発経済に興味を持ったきっかけが竹中平蔵だった、ってあたりはともかく、やってること自体はしごくまっとうなPost-Washington Consensusに基づく社会的企業活動。つまり「援助」が現地の賄賂に消える現実を変えるためには、政策的にはガバナンスの改善、民間レベルでは援助ではなく自立支援を行うビジネスの導入が必要だという観点だ。バングラディシュと言えば、グラミン銀行が出資した「グラミンフォン」の事例が有名だが、社会的企業活動のひとつのフィールドになりつつあるのかもしれない。

グラミンフォンという奇跡 「つながり」から始まるグローバル経済の大転換 [DIPシリーズ]

グラミンフォンという奇跡 「つながり」から始まるグローバル経済の大転換 [DIPシリーズ]

実際に店舗に行ってみたのだが、確かに売られているバッグの出来はいい。価格も日本のものとそう変わらないが、それだけに日本の市場で勝負できる商品だなと感じる。買い物をすると、分厚いポイントカードを渡されるのだが、そこにはポイントがたまると1500円の商品券になると同時に、1000円がバングラディシュにスクールバッグを送るために使われるとある。このあたりも経営学の視点を取り入れながら途上国に自立支援を行う社会的企業の明快なスタンスだといえる。

ウェブサイトを見る限り、81年生まれの山口をはじめ、スタッフは20代が中心。そこに強く感じるのは、30〜40代で社会貢献に身を投じる人間にありがちな「自分探しっぽい雰囲気」がしないことだ。おそらく社会貢献活動に対する忌避感の源泉の一部は、こうした世代のトラウマ的な「自分探し」への意識があるのだと思うが、彼らはごく当たり前のように社会貢献をやってのける。これが昔のSFCなら、脆弱な意識を「他者のために何かする」ことで埋め合わせようとするあまりに独善的になる輩の巣窟なんじゃないかと危惧したところだが、昨今はそうでもないのかもしれない*1

で、ロスジェネ問題。なぜこの世代の社会活動が問題を抱えるのかというと、よく言われるのが「自分の問題を棚上げにするために他者・社会に関わる」から。一時期批判された、自分の心が分からないから臨床心理士を志望する学生とか、再教育が必要な教師志望とか。そんな人間が大量にいたのかどうか分からないが、いたことはいたのだろう。ただどちらかというと、格差や労働に関する言論・活動に感じるのは、マルクス主義流に言うと虚偽意識批判のような気がする。

虚偽意識とは、要するにお前の見方はブルジョア的下部構造によって決定されているのに、その観念の体系を真実だと思いこんでいるという話。もっとぶっちゃければ、お前が自己責任とか言えるのはお前が元々勝ち組だからだ、と。だから自らの虚偽意識を自覚し、自己批判するために、ブルジョア社会に育った我々はもっと「現場」に分け入り、貧困のリアリティを肌で感じなければならない、と、新左翼の一部なんかはそう考えたわけだ。

だがこれは、虚偽意識にとらわれた「われわれ」と、貧困にあえぐ「彼ら」が分断されていた時代の話。ちなみに旧左翼は「彼ら」がブルジョアとして成功したいと考えるその虚偽意識を解除してやらねばならない、とか考えたわけだが、基本的な構造は同じ。ロスジェネの場合、このあたりが逆転する。むろん本当に言葉を持たない「現場」の人もいるが、言葉を持っている人の中にも、その「現場」に放り込まれてあえいだ連中がたくさんいた。だから彼らのロジックは必然的に、「お前たちは俺たち現場の苦労を知らない!」となる。「お前たちは現実を知らない」と言い換えれば、ロスジェネが何かを批判するときに使われる物言いのほとんどがそこに含まれる。対象は経営者でも官僚でも政治家でもマスコミでも構わない。

だが、こうした批判の説得力は、その「現実」なるものが、どのくらいの広がりを持っているのかによって左右されてしまう。マルクス主義の後ろ盾があった時代には、どの「現場」の苦境も、資本主義がもたらす窮乏化の証左となり得たから、それぞれの違いは問題にならなかった。だが現場からあがってくる抗議の声は、それが世代の問題なのか、時代の問題なのか、その企業の問題なのか、その人個人の問題なのかを切り分けられない。しかも他から見ればそれは「なんでボクのことを分かってくれないんだ!」と言ってるようにしか見えないわけだ。

ロスジェネのジレンマは、「僕らにしか分からないこと」を「社会の問題」に接続していくロジックが、構造上貧困にならざるを得ないことだ。だから、彼らの活動は「自分探し」なのか「社会活動」なのか、にわかには判然としがたい。雨宮なんかはそれを「個人の問題から出発して社会へつながる」ことの利点として挙げるが、そもそもそういう回路しかないことが貧困だ、という批判は、浅羽通明あたりを持ち出さずとも出てくるだろうなと思う。

右翼と左翼はどうちがう? (14歳の世渡り術)

右翼と左翼はどうちがう? (14歳の世渡り術)

右翼と左翼 (幻冬舎新書)

右翼と左翼 (幻冬舎新書)

ロスジェネの下の世代にそうしたジレンマがないとは思わないが、相対的に恵まれた環境に生きる人々が増えることで、「社会への恨み」に駆動された批判活動ではなく、それらと切り離された社会貢献が可能になるのではないか。もっと言うなら「別にいいじゃん虚偽意識でも」ってな具合だろうか。ロスジェネにとっては「踏み石」にされた形だが、時代のトレンドはそちらに向かうのだと思う。おそらくロスジェネが気にしなければいけないのは、正社員になりたがる連中をどうやって「こちら側」にオルグするかではなく、自分たちと同じ関心を持ちながら、自分たち以上にポジティブで幸福な連中に対して「お前らはボクの気持ちを分かってない!」以外にかける言葉があるかどうかを考えることなのだ。それがどれだけ、惨めな気持ちを呼び起こすのだとしても。

*1:ちなみに同社の取り組みは明日の「情熱大陸」で放送されるとのこと。実際のところは放送を見て判断するべきかもしれない。

ビジネスパーソンが読むべき社会科学書籍(の一部)

「コンビニ売りのビジネス誌」というと、もうその時点で役に立たなそう、あるいは即物的すぎる、と決めてかかっていたのだが、昨日見つけた『PRESIDENT』08年3月31日号の特集「一流が読む本、二流が好む本」は、割に面白かった。どうせ宗教まがいの自己啓発司馬遼太郎なんでしょ、と思いきや、哲学や社会科学の書籍もそこそこに取り上げられている。

PRESIDENT (プレジデント) 2008年 3/31号 [雑誌]

PRESIDENT (プレジデント) 2008年 3/31号 [雑誌]

ま、冒頭から「本はただ読むだけでなく『気づき』が重要」だの「脳の回転数が上がっている状態で本を読め」だの書かれているのだが、その辺はとばして「役職別 『一歩抜きんでる』貫禄の126冊」のパートへ。タイトルはアレだが、役職別に見てみる。

新入社員

あまりここで取り上げるべき本はない。経営者の自伝や自己啓発本、なぜかビジネスパーソンには人気の般若心経本などが並ぶ。挙げておくとすれば

トヨタ生産方式――脱規模の経営をめざして

トヨタ生産方式――脱規模の経営をめざして

くらいだろうか。新入社員は自己啓発しながら奴隷のように働けということか。紹介者は、プレセナ・ストラテジック・パートナーズ代表取締役の高田貴久氏。

中堅社員

うってかわって組織論の本が登場。中堅は辛いのだな。社会科学方面で言うと

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

新訳 君主論 (中公文庫BIBLIO)

新訳 君主論 (中公文庫BIBLIO)

虚妄の成果主義

虚妄の成果主義

あたりが重要だろうか。『失敗の本質』くらいは学生のうちに読んでおきなさいとも思うが。紹介者は丸善代表取締役社長の小城武彦氏。

部課長1

司馬遼太郎など、小説や歴史物が中心なので割愛。紹介者は神鋼電機代表取締役会長の佐伯弘文氏。

部課長2

幅の広いセレクションだが、以下の三点をピックアップする。

文明の衝突

文明の衝突

知識創造企業

知識創造企業

モーセと一神教 (ちくま学芸文庫)

モーセと一神教 (ちくま学芸文庫)

紹介者は、元マイクロソフト社長で現在インスパイア社長の成毛眞氏。

営業マン

営業は別に男だけでは、などと『PRESIDENT』に求めても仕方ないか。

1997年――世界を変えた金融危機 (朝日新書 74)

1997年――世界を変えた金融危機 (朝日新書 74)

紹介者は、兵庫県立大学教授の中沢孝夫氏。

女性社員

女性と男性では自己啓発の源がいかに違うか、ということを知るためにこそ役立つラインナップなのだが、取り上げるのは以下。

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

フラット化する世界 [増補改訂版] (上)

フラット化する世界 [増補改訂版] (上)

フラット化する世界 [増補改訂版] (下)

フラット化する世界 [増補改訂版] (下)

紹介者は、NPO法人 J-Win理事長の内永ゆか子氏。

役員・社長候補

候補、というのはどの程度までを指すのか分からないが、以下は誰にも重要。

イノベーションのジレンマ 増補改訂版 (Harvard Business School Press)

イノベーションのジレンマ 増補改訂版 (Harvard Business School Press)

紹介者は、一橋大学イノベーション研究センター教授の米倉誠一郎氏。

感想

時代が変わったなあと思うのは、『日本人とユダヤ人』ほか、ユダヤ関係の書籍が目立たなくなり、アメリカ系の経営理論が伸びていることか。

日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)

日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)

その昔、ビジネスパーソンが世界で仕事するといえば、キリスト教ユダヤ教イスラム教についての知識が役に立つと思われた時期があった。中国哲学もしかり。おそらく現在では、グローバルなビジネス環境に適応した人びととのネットワークの方が重要になっているので、その辺を勘案する必要はないと思われているのだろう。これは社会科学のトレンドそのものの変化とも大きく関わる。マルクスヴェーバーは、社会哲学であると同時にビジネス書になり得た。だから小室直樹だって受け入れられた。その役割が終わったとは思えないが、そんな余裕はないということだろうか。というよりむしろ、その種の本は、実際の仕事の現場で「奴ら」とコミュニケートする過程でどうしても「グローバル・スタンダードに収まりきらない残余」が気になりだしてから読めばいいのかもしれない。

同誌では他にも「『実践で役立つ』傑作150」でダンコーガイ氏がドラゴンボールを勧めていたりと愉快な部分もあるので手に取ってみるといいのではないか。