相対主義は相対化できるか

こないだの論争がらみでいろいろ見ていて、少し気になったことを。

まあ、しかし、こんな議論はすべて意味がないのです。なぜなら、いまのブログ環境においては、あることを主張したいときに、検索エンジンを駆使して自分に都合のいいようにデータを並べ、本の一節とかをどっかから取ってきて、「ほらAはBだ」「AはBじゃない」と言うことはいくらでもできるからです(ぼくがやったのがまさにそういうことですw)。よく考えたら、そんなことは自明でした。

ポストモダン論とかネット社会論の一部で言われるようになったこうした現象は、実は割と根の深い問題なのではないかと思う。南京問題をはじめとして、ネットでは歴史問題やマスメディアの報道を巡って、それが「真実」か否かというアジェンダが持ち上がりがちだ。90年代に修正主義論争が持ち上がった際には明確に存在していた「戦後史観・的なもの」に対するカウンター、すなわち政治的立ち位置の問題はそこではすっかり薄れ、主張のための主張、プライド保持のための論争が行われているようにも見える。議論がヒートアップするほど、「そんな問題、世の中がひっくり返るほど重要じゃないんだから、別にどっちだっていいんじゃね?」という突っ込みの余地は削り取られていくのである。

この出来事の起点には、間違いなくポストモダニズムが称揚した「相対主義」がある。近代が自明視してきた価値観、性別役割分業だとか、それと連動した性モラルだとか、主流文化はサブカルチャーや土着文化より偉いとか、それらに対するカウンターとして、「近代は自明じゃない」ということを主張する道具としてのポストモダニズムには、ある時期までは確かに意味があった。ある時期とはつまり、世の中の多くの人が(疑問を持つ人がいたとしても)それを「当たり前(だとみんなも思っているはずだ)」と信じられた時代までということだ。

だが(おそらくポストモダニズムの流行とは無関係に)、高度成長の終焉なり、第三世界の成長なり、個別性を重視するサービス経済の進展なりといった出来事が社会の中心に据えられるようになって、そうした価値の自明性は失われてしまう。そう考えれば、ポストモダニズムが一般の人々の間にまで「流行」してしまうという事態そのものが、既に人々の間に「もう近代も終わりだよね」といった感覚が広がっていたことの証左であるとすら言える。大澤真幸ではないが、「近代はもう終わる」とみんなが思った時点で、〈近代〉は終わっていたのだ。

だが、かかる「落差」を前提にした議論は、歴史上一回しか起こりえない。〈大きな物語〉を相対化するために持ち出されたポストモダニズムは、批判対象が小さくなるにつれて、それそのものも別種の〈大きな物語〉に見えるという事態が生じる。端的に言うと、相対主義の相対化が生じるのである。

それで、「事実が求められていない」件だが、その理由を端的に言えば、今がポストモダンだからである。最近は安直に理解したポストモダン論を一括りに罵倒するような言論が増えているように見えるが、その一因は多分、ポストモダン論に新鮮味が失われたからだろう。なぜ新鮮味が失われたかと言えば、それはポストモダンはもう「来るべき時代」ではなく、今・この時間になってしまったから、目の前にある当然の現実のままになってしまったから、だ。

当たり前のことだが、相対主義の相対化は、客観的に見れば相対主義の極地である。物事を相対的に見ようと絶対的に見ようと「そんなの関係ねえ」と言えてしまうこと、それが究極の相対主義であるわけだ。だが、主観の水準においては「そんなの関係ねえ」と言っているその人は、相対主義を相対化して、絶対主義の境地に至ってしまう。論理的には不可能であるはずのこうした現象は、発話者にとって強い内的な合理性を有しているがゆえに、非常にやっかいだ。

いまの日本だとそれはネットで噴き上がる人々ということになるのかもしれないが、この困難は世界的には、まず冷戦後ヨーロッパの民族主義問題として現れた。歴史修正主義と並んで、90年代ヨーロッパの知的課題は、相対主義が完成した後の世界に跋扈する「絶対的なもの」を、どのように取り扱うべきか、という点が中心になっていたとすら言える。

こうした状況で出てくるのが、たとえばラクラウとムフが主張した「ラディカル・デモクラシー」だったのではないか。ラディカル・デモクラシーの特徴は、絶対的な信仰を有した人々の、民主主義や平和に対する挑戦を、民主主義の危機ではなく、民主主義が健全に機能している証拠だと捉えるところにある。ある立場の人と、別の立場にある対抗者(Adversary)が、同じルールを共有しながら議論し続けることは、両者の落としどころをつけて意見を一つに集約するより、民主的だというのが彼らの主張だ。

もちろん、ではそのルールを共有しない人はどうするのか、という課題は残るし、実際に同時多発テロ以降、ムフは自らの主張の一部を修正せざるを得なくなったと私は見ているが、ともあれ、コンセプトとしてはラディカル・デモクラシーは「相対主義の相対化」以降の社会における、ひとつの有効な回答であり得ると私は思う。

しかしここでもうひとつやっかいなのは、冒頭に引用したとおり、情報化とそこから引き出される情報の増大・検索の効率化によって、それぞれの人々の立場の「絶対性」を保証しうるリソースは無限に引き出しうるにもかかわらず、〈近代〉の政治システムは、ひとつの方向で政策を決定しなければならないということだ。これはポストモダニズムが放置した重要な問題のひとつである。人間の価値観が変わったところで、人々が生きている社会の仕組みはそれに追いつく速度では変化しない。情報化やグローバル化による「国家の退場」は長年語られているが、前のエントリで挙げた国連中心の世界枠組みを含め、ついぞ実現する気配はない。

長い時間をかければ解決するかもしれないこのギャップは、しかし現状においてはさしあたり、何らかの政策を決定しなければならない場面において、いろいろと困った問題を生み出す。歴史問題などは、専門家以外にとってはプライドの問題でしかないかもしれないが、たとえば騒がれているネット規制の話など、多様なアクターを「賛成」「反対」の枠組みに持ち込んで数の勝負をかけようとするほど、当初の主張と無関係な「落としどころ」に引きずられることになってしまいそうな予感がしている。それこそ反対派の一部には強硬な「ネット自由至上主義者」がいるのかもしれない。だが彼らがその理想ゆえに「絶対勝たなければならない」と考えるほど、彼らは「国ではなく民間が積極的にフィルタリングを進めるべき」とか「ネットは自由が原則だが学校裏サイトは死んでも認めない」といった人々とも手を組まされることになるのである。

この手の話は練習問題みたいなものだし、現実の問題を考えるにあたってはいまのところ別に何の役にも立たない。だが、単純に相対主義を唱えるだけでもだめ、しかし絶対的な信仰を持つ人々が、めいめいに好き勝手なことを言っていても何も決まらないというジレンマが、あらゆる場面で生じていることを理解するだけでも、「その次」の制度設計に向けたヒントは導きうるはずだ。

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