ナチオンから遠く

お昼休みくらいゆっくりご飯がたべたいです。

両者の違いは、たぶん「ネーション・ステート」を支える「ナショナリズム」なるものの認識のズレに由来しているのではないかと思う。東氏がそれを、血族的同胞感情に基づく一体感、つまりフランス社会主義的に捉えるのに対し、finalvent氏の方は、ヘーゲルドイツ国法学的な意味で、つまりそうした血族感情を止揚するものとして捉える(だからヘーゲル市民社会に任せたって福祉なんて無理だぜ、と考えた)。

ただ東氏の問題提起は、それをさらに踏まえても、ネーション・ステートなんてあらかじめ定められたメンバーとそうでないメンバーを区分して守るだけでしょ、というところにある。これは社会科学的には、「市民権」の問題として知られる。市民権は、「普遍的な人権概念」のようなものを参照しながら得られる実体としての諸権利のことを指す。プログラムで言えばクラスとインスタンスの関係にあたるのだろうか。人権概念はあくまでクラス*1であって、実際に行使されるのは、あるロジックの中で人権概念のコピーとして用いられる市民権だ。なぜこうしたことが必要になるのかというと、(1)クラスとしての人権を直接現実に行使する場合、それは非常に現実的に定義せざるを得ず、クラスそのものが誤っていたときに「他の可能性」が想起できなくなる、(2)現実的に権利の行使を可能にする、ないし権利侵害を禁止するのは、暴力独占装置としての国家しか、主体として想定し得ない、というふたつの理由による。

しかしながら近年、特に(2)の条件が緩和されたことで、この前提に揺らぎが生じている。情報社会の監視ツールもその一部にカウントできるだろう。国家以外にも権利保障の主体としての資格がありうるなら、わざわざクラスとインスタンスを区分する必要はないのではないか、という議論が、いわゆる「グローバルな正義」論の背景にある。国連が強大な権力を持って、国家による人権侵害も含めて取り締まりましょう、と。いまは国連独自の軍隊というのは存在しないので、名目上グローバルな正義といっても、湾岸戦争からイラク戦争に至るまで、特定の国家の、特定のメンバーを保護するのが実際のところ、という話はあるのだが、暴力の独占による「市民権の人権化」、つまりクラスの直接の公使を理想とする議論は、わりとヨーロッパあたりで根強い。『沈黙の艦隊』ってすごかったのね、っていう話かな。

*1:あるいはメンバ関数としての諸権利概念の集合体