社会企業家と虚偽意識

週末に読んだ本から2冊。

まずは城繁幸の新刊。大部分はWebでの連載を元にしたインタビュー。ところどころにコラムを挟みつつ、「昭和的価値観」を脱し、自分なりのキャリアを積み上げたり、独立した人たちを紹介している。著者の基本的なメッセージは、いい学校→いい会社→いい人生という昭和的価値観に凝り固まった連中が日本をダメにしている、もっと雇用を弾力化し、能力のある人をきちんと評価しない会社からはとっとと逃げ出して、自己責任で人生設計をできるようにするべきだというものだ。そのために城は、賃下げや降格など、労働条件の不利益変更を可能にする「劇薬」さえも肯定する。もらうべきでない奴から、報酬を取り上げるためだ。

こういうものを読むと、そろそろロスジェネ論も成熟してきたのかなと思う。というのも、こうした方向に納得しない手合いもかなりいるのではないかと思われるからだ。たとえば雨宮処凜なんかは、『中央公論』4月号での佐藤優との対談を読む限り、自分(たちロスジェネ)は、常に社会からダメだダメだと言われ続けてきて自信を失っているという思いがあるから、「もらうべきでない奴に報酬を与えるのは悪」とする城の見解に、完全には同意できないだろう。自分が「もらうべきでない奴」と断じられたときに、言い返せないことの恐怖を知っているからだ。

もちろん城も弱者を切り捨てろと言っているわけではない。グローバルな環境に合わせた自己責任の環境を作らないで、セーフティーネットだけを準備するのは意味がないというのが彼の主張だ。だが、「企業が雇用を流動化したせいでロスジェネが使い捨てられた」というのと、「企業が雇用を流動化しなかったせいでロスジェネが割を食った」というのは、話として真逆だ。実際には、「企業が正社員の雇用を流動化させないために、ロスジェネを流動化したせいで彼らが割を食った」のだが、前段が問題だと考えるか、後段が問題だと考えるかで、処方箋の方向も真逆を向く。先にセーフティーネットを準備しないと自己責任も取れないとする人々と、それでは自己責任で人生を選択することを阻害するという立場での対立が、いよいよロスジェネの中から出てくるのかもしれない。

というより、そこまでいかないとロスジェネ論に実りがあったとはいえないだろう。現実的には、実力主義でいける人と、それが無理な人と、世代と関係なく貧困に陥っている人で異なる処方箋が提示されるべきだし、その一部に対する処方箋を提示したからといって、別の存在を無視していると糾弾するのはお門違いというものだ。その意味で、城と雨宮を同じ「ロスジェネ論」の中に入れてしまうのは乱暴だと思う。

ただ難しい点もある。既に知識人・研究者の議論の中心は、ロスジェネも含めた「貧困問題」をどのように政策に還元していくかという方向にシフトしており、ありがちな「ロスジェネのルサンチマン論」からは一定の距離を置き始めている。それとロスジェネ内での差異が強調されていくプロセスが並行すると、新左翼と同じ内ゲバの歴史が待っていることは想像に難くない。「実力主義とか言うお前はネオリベの手先だ!」とか、「バイトの口があるくせに無職の俺の気持ちが分かるとか言うな!」とか、「マスコミと学者の言ってることは現場を知らない嘘っぱちだ!」とか。要するに、相手をしてくれるのが自分たちしかいなくなってしまうわけだ。

自分たちが本当に「ロスト」されるかもしれないという不安は、城の本の最後にも出てくる。景気と雇用が回復して、正社員として会社にしがみつく「昭和的価値観」に染まった若者が登場することで、ロスジェネだけが「自己責任」を強いられ、上と下から挟撃されるのではないかという危機感を表明するロスジェネ論者はほかにもいる。でも、それはほんとうに正しいのか?ということで2冊目。

裸でも生きる――25歳女性起業家の号泣戦記 (講談社BIZ)

裸でも生きる――25歳女性起業家の号泣戦記 (講談社BIZ)

バングラディシュのジュートという麻で作ったバッグや小物の販売を通じて、現地に自立支援を行う社会的企業マザーハウスの代表・山口絵理子の、起業に至るまでの自伝。たまたま本屋で見つけたのだが、ドラマティックな半生を「泣き虫だけどがんばった」という風にパッケージしているあたりとか、開発経済に興味を持ったきっかけが竹中平蔵だった、ってあたりはともかく、やってること自体はしごくまっとうなPost-Washington Consensusに基づく社会的企業活動。つまり「援助」が現地の賄賂に消える現実を変えるためには、政策的にはガバナンスの改善、民間レベルでは援助ではなく自立支援を行うビジネスの導入が必要だという観点だ。バングラディシュと言えば、グラミン銀行が出資した「グラミンフォン」の事例が有名だが、社会的企業活動のひとつのフィールドになりつつあるのかもしれない。

グラミンフォンという奇跡 「つながり」から始まるグローバル経済の大転換 [DIPシリーズ]

グラミンフォンという奇跡 「つながり」から始まるグローバル経済の大転換 [DIPシリーズ]

実際に店舗に行ってみたのだが、確かに売られているバッグの出来はいい。価格も日本のものとそう変わらないが、それだけに日本の市場で勝負できる商品だなと感じる。買い物をすると、分厚いポイントカードを渡されるのだが、そこにはポイントがたまると1500円の商品券になると同時に、1000円がバングラディシュにスクールバッグを送るために使われるとある。このあたりも経営学の視点を取り入れながら途上国に自立支援を行う社会的企業の明快なスタンスだといえる。

ウェブサイトを見る限り、81年生まれの山口をはじめ、スタッフは20代が中心。そこに強く感じるのは、30〜40代で社会貢献に身を投じる人間にありがちな「自分探しっぽい雰囲気」がしないことだ。おそらく社会貢献活動に対する忌避感の源泉の一部は、こうした世代のトラウマ的な「自分探し」への意識があるのだと思うが、彼らはごく当たり前のように社会貢献をやってのける。これが昔のSFCなら、脆弱な意識を「他者のために何かする」ことで埋め合わせようとするあまりに独善的になる輩の巣窟なんじゃないかと危惧したところだが、昨今はそうでもないのかもしれない*1

で、ロスジェネ問題。なぜこの世代の社会活動が問題を抱えるのかというと、よく言われるのが「自分の問題を棚上げにするために他者・社会に関わる」から。一時期批判された、自分の心が分からないから臨床心理士を志望する学生とか、再教育が必要な教師志望とか。そんな人間が大量にいたのかどうか分からないが、いたことはいたのだろう。ただどちらかというと、格差や労働に関する言論・活動に感じるのは、マルクス主義流に言うと虚偽意識批判のような気がする。

虚偽意識とは、要するにお前の見方はブルジョア的下部構造によって決定されているのに、その観念の体系を真実だと思いこんでいるという話。もっとぶっちゃければ、お前が自己責任とか言えるのはお前が元々勝ち組だからだ、と。だから自らの虚偽意識を自覚し、自己批判するために、ブルジョア社会に育った我々はもっと「現場」に分け入り、貧困のリアリティを肌で感じなければならない、と、新左翼の一部なんかはそう考えたわけだ。

だがこれは、虚偽意識にとらわれた「われわれ」と、貧困にあえぐ「彼ら」が分断されていた時代の話。ちなみに旧左翼は「彼ら」がブルジョアとして成功したいと考えるその虚偽意識を解除してやらねばならない、とか考えたわけだが、基本的な構造は同じ。ロスジェネの場合、このあたりが逆転する。むろん本当に言葉を持たない「現場」の人もいるが、言葉を持っている人の中にも、その「現場」に放り込まれてあえいだ連中がたくさんいた。だから彼らのロジックは必然的に、「お前たちは俺たち現場の苦労を知らない!」となる。「お前たちは現実を知らない」と言い換えれば、ロスジェネが何かを批判するときに使われる物言いのほとんどがそこに含まれる。対象は経営者でも官僚でも政治家でもマスコミでも構わない。

だが、こうした批判の説得力は、その「現実」なるものが、どのくらいの広がりを持っているのかによって左右されてしまう。マルクス主義の後ろ盾があった時代には、どの「現場」の苦境も、資本主義がもたらす窮乏化の証左となり得たから、それぞれの違いは問題にならなかった。だが現場からあがってくる抗議の声は、それが世代の問題なのか、時代の問題なのか、その企業の問題なのか、その人個人の問題なのかを切り分けられない。しかも他から見ればそれは「なんでボクのことを分かってくれないんだ!」と言ってるようにしか見えないわけだ。

ロスジェネのジレンマは、「僕らにしか分からないこと」を「社会の問題」に接続していくロジックが、構造上貧困にならざるを得ないことだ。だから、彼らの活動は「自分探し」なのか「社会活動」なのか、にわかには判然としがたい。雨宮なんかはそれを「個人の問題から出発して社会へつながる」ことの利点として挙げるが、そもそもそういう回路しかないことが貧困だ、という批判は、浅羽通明あたりを持ち出さずとも出てくるだろうなと思う。

右翼と左翼はどうちがう? (14歳の世渡り術)

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右翼と左翼 (幻冬舎新書)

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ロスジェネの下の世代にそうしたジレンマがないとは思わないが、相対的に恵まれた環境に生きる人々が増えることで、「社会への恨み」に駆動された批判活動ではなく、それらと切り離された社会貢献が可能になるのではないか。もっと言うなら「別にいいじゃん虚偽意識でも」ってな具合だろうか。ロスジェネにとっては「踏み石」にされた形だが、時代のトレンドはそちらに向かうのだと思う。おそらくロスジェネが気にしなければいけないのは、正社員になりたがる連中をどうやって「こちら側」にオルグするかではなく、自分たちと同じ関心を持ちながら、自分たち以上にポジティブで幸福な連中に対して「お前らはボクの気持ちを分かってない!」以外にかける言葉があるかどうかを考えることなのだ。それがどれだけ、惨めな気持ちを呼び起こすのだとしても。

*1:ちなみに同社の取り組みは明日の「情熱大陸」で放送されるとのこと。実際のところは放送を見て判断するべきかもしれない。