責任を語るポストモダン
なんだか、東・大塚対談本を恣意的に解釈しているブログを読んで、あれっ、そんなこと書いてなかったはずだけど、と思ったのでメモ的に引用。
314P
東:そもそもぼくの世代って、NPOや社会企業のはしりの世代でもある。国際大学GLOCOMに所属していたときに、若くして起業したり、国会議員の秘書をしたりして本気で社会を変えようと思っているようなひとにたくさん会いました。彼らは善意の塊です。けれども、やはりある意味で危険な人々です。なぜなら、この世界の複雑さに直面していないからです。実際、彼らは、加藤容疑者に共感するニートたちの気持ちを理解できないはずです。「希望はあるんだよ、がんばろうぜ!」とか言って終わりでしょう。しかし、じつはそういう発言こそが暴力なんです。
ぼくはそういう時代環境の中で、むしろ政治的発言、イデオロギー的発言から距離をとることにささやかな良心を見出してきました。だから、前の対談でも、「公的である」という表現に違和感を表明してきた。しかしそれでも、今回の秋葉原事件では多少公的な発言をしなければならず、新しい方向も探らざるを得なくなってきた。そういうぼくの逡巡を、もう少し大塚さんに信頼していただけるかと思ったのですが(笑)
315P
大塚:君が20代で出てきたときに、ぼくらは順番に君のことを叩いていったよね。浅田くんあたりからはじまって、いちばん最後にぼくが、というぐらいに君はスポイルされているからこそ生き残っているわけだし、そのことに関して、僕は認めているという言い方は上からものを見ているようだけど、その中であなたがものを書いてきたっていうことに対しては、一切合切認めているわけよ。
ところが、ニート論壇の子たちは、あなたが切り拓いてきた場所にノコノコとやってきて、しかも上の世代がつくったお膳立ての上で踊っているようなところがあるわけじゃない? そこで、こんなふうに簡単に分かってもらえることが、果たして本当に幸福なのかどうか。
316P
東:その点では、僕は確かに後続世代に甘いのかもしれません。『思想地図』も「東浩紀のゼロアカ道場」もかなり若い書き手に媚びているように見えるはずで、その点で批判されるのは分かります。
ただそれはきっと、知的な戦略というより、とにかくぼく自身がかなり叩かれた人間なので、叩くのがいやになっているということだと思います。同じ経験をひとにさせたくない、みたいな(笑)
319P
東:(略)今回の事件をきっかけに、ぼくはもう一度サブカルチャーの機能について考えるようになりました。大塚さんのサブカルチャー論が刺激的なのは、大塚さんがそこに一貫してひとを「救う」機能を認めているからだと思います。大塚さんはいまのマンガやアニメは気に入らないかもしれないけれど、たぶんその部分は決して否定しない。
大塚:消費財化された、すごくレベルの低い表現で救われることだってあるからね。
東:しかし、ぼくはいままで、むしろオタク文化は違う方向に進化していると主張していたわけです。というか、そう主張しているひとだと広く思われていて、実際にそれが大塚さんに批判を受ける理由にもなっていた。
だから逆に、今回の事件をきっかけに、ネットでは早くもぼく批判がでています。「データベース消費」とか「動物化するポストモダン」とか言ってたけど、結局加藤容疑者は「動物化」できなかったではないか、と。オタク的データベースに囲まれて動物化してまったり生きるなんて、嘘八百ではないかと。
ぼくはべつに、加藤容疑者がひとり現れただけで、ぼくのいままでの主張が覆るとは思わない。だけれど、今後は、そのような反論をあらかじめ考慮しておかなければならなくなったのは確かです。つまり、サブカルチャーがひとを「救う」可能性についても言及しなければならなくなった。
以上の引用は、『リアルのゆくえ』最終章、秋葉原事件を受けて行われた対談での発言だ。ここで東は、大塚に対して一貫して表明してきた違和感、つまり「公的なものについて語る」ことの必要性を認識するようになったと語っている。本文でも東が言及するとおり、これはひとつの「転向」の宣言だと見ていいだろう。この本のスリリングなところは、最後の最後でこのどんでん返しがやってくるところだ。そういえば、伝統的価値の恣意性や「バカ親父」の叩き続けてきた宮台真司が「転向」したと言われるようになったのも、40歳前後のことだったと記憶している。ひとは、このくらいになると「下の世代」や「社会」への責任を感じ始めるのかもしれない。
ただし、両者の間には大きな戦略の差が依然として残っている。それは、下の世代に対して抑圧的に振る舞い、彼らを鍛えようとする大塚と、そうした「叩き」に意味を見出さなず、「分かってあげる」「社会に分からせる」という戦略をとる東という対立だ。この対立まで解消されていくのか、私には分からない。ただ一般に言って新人類世代は、団塊の世代の抑圧的な振る舞いが大嫌いだったと聞くし、だからこそズレるだの逃げるだの言ってたわけで、それが抑圧へと転回していくためには、それなりの逡巡もあったのではないかと思う。
とはいえ、ここでやり玉に挙げられているひとたちについて言えば、個別の論者を叩いて、それによって鍛えていくという戦略にあまり意味が見出せないというのも事実ではあろう。彼らは別に上の世代のお膳立ての上だけで踊っているわけではなく、新書バブルに伴う書き手不足など、出版業界の経営的な事情で世に出られたに過ぎないからだ。だが『論座』や『スレッド』、『m9』の末路を見ても、ネット発の書き手がそれだけで出版社の期待に応える存在になるという保証はどこにもない。あと数年は、淘汰の時代が続くだろう。その中で個別の論者を叩いても、彼らを支える期待の中から、より劣化した、あるいはセンセーショナリズムに乗っかった別の連中が出てくるだけだ。
ベタにいくなら、文字通りの「啓蒙」が可能になるような、論者同士の横の繋がりを活かしていくべきだと思う。再帰性(笑)の高まる現在では、ついつい相手の発言ではなく、相手がそのように発言する背景の方に目が行きがちだが、間違ってるものは、どうしたって間違っているし、不勉強なものはやっぱり不勉強以外の何者でもないのだから。
リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)
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