例の件について雑感

事前の予想通り「エリート」の定義を巡って議論がなされ「公共性」の方の話はほとんど深められなかったという感触。しかしその話こそが大事だったのではないか。あずまんとミヤディーの差は、エリートの定義にあるのではなく、コミットする公共性の範囲にある。そしてそれは、カンさまが言う「資源配分」としての政治の問題と密接に関わっている。

それにしてもこういう場所ではパフォーマンス能力が強く問われる。棒立ちになるくらいなら、迂闊でも何かを発言しないと文字通りアンダードッグになってしまう。その意味では、師匠をブチ切れさせてもやっぱり愛されるチャーリーと、何を言っても声の美しさで許される(内容が耳に入らない)カンさまは思想家というよりはパフォーマー。ミヤディーも言っていたが、ああいう人がいる、という風に思わせることが重要なのだろう。

そして、皮肉を言うなら、エリートについて論じるより、エリートとして振る舞うことのできる人間の才能の方が重要だということを、それは示している。真のエリートは、エリートの定義について考えたりしない。ヴェーバーがなぜカリスマについてあれほど論じたのかを、もう一度煎じ詰めるべきなのではないか。