誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いてるよ

行かなくてよかったという思いと、行っておけばよかったという思い半ば。

増山:性欲が殺気立っている気がする。性風俗の充実に国が保護を出して3000円で女を抱けるようにするべきでは。

赤木さんも「加藤容疑者は、女を抱きたいんじゃなくて、継続してつきあえる相手=彼女がほしかったんじゃないか」と語っていたけど、そうか、彼らも消費されない関係を求めているんだ!当たり前か。

3000エンで公共売春所を作ったらいいんじゃないかと、いう提案しかできなかった自分に反省。

この発言が事実だとすれば、そしてそれがスルーされたのだとすれば、もう『ロスジェネ』には何も期待しないし、するべきではないと思った。既存の左翼に不満を表明するのも、アートと政治を融合するのも勝手だが、搾取されている人間のガス抜きのために、別の誰かを、国家まで持ち出して暴力的に搾取してよいなどと考える人間に、貧困や差別を論じる資格はない。それが「運動」や「政治」だというなら、そんなものは犬に食わせろ。怒りを表明しろというなら、こういう連中に平気で「言論」する場を与えた「ロスジェネ」ブームに怒りを表明したい。

と同時に、現代の格差、貧困論の隆盛が、完全に80年代までの知的成果をぶち壊しにしたのだなという感慨もある。左翼であることと知的であることがイコールだった時代、特に新左翼の登場以降は、確かに「弱者探し」がメインテーマになっていたし、「誰が本当の弱者であるか」を巡る闘争だって存在した。けれど、殴られた自分は、もっと弱い誰かを殴る資格を有するなどとは、恥ずかしくて誰も言えなかった。まして、80年代の小難しい方のフェミニズムの最大の成果は、こうした「すべてを男の性欲の問題に回収する」言説の乱暴さを糾弾したところにあったはずではないのか。

自由意思に基づく売春は否定できないし、それが商業化されているのも単なる事実だ。その昔、Coccoがとある雑誌のインタビューで、米軍基地に性風俗がない以上、沖縄県民をレイプする米兵が出てくるのは必然だというようなことを答えていたりもした。けれど、それとこれとは話が違う。自己責任論にどれだけ問題があるとしても、ここで言及されている彼らが、国家の任務で強制的に性から隔離されている兵士ではない、単に周囲との比較でモテないと鬱屈している人間である以上、そのことを他者に責任を帰する余地はないはずだ。こんな身勝手な物言いが平気でまかり通るというなら、私は今すぐ自己責任論者に鞍替えしたっていい。誰がお前らのケツなど拭くか。

この件については、考えれば考えるほど怒りがこみ上げるのだが、数日おいて冷静になったら、少し思想的なところから考えてみたいと思う。