『思想地図』シンポジウムまとめ(第一部)

1月22日に行われたシンポジウムのまとめ。当日のメモを元にした主観からのまとめであるため、発言者の意図を完全にくんでいるわけではないことをご了承ください。オフィシャルな議論のテクストは、『思想地図』に掲載されると思われるので、この議論に興味を持たれた方はそちらを購入しましょう。

第一部:報告編

『思想地図』創刊にあたって考えていたこと。思想は政治性を持たなければならない。95年以降、思想が具体的な実効性を問われる言葉に縮減していったと認識している。だが思弁的な言葉で考えてもいいはず、そういうものを取り戻したい。現実との繋がりは「あればいい」けど、ことさらに強調する必要はない。ほかの論壇誌ではできない、抽象的だけど具体的な思考を載せていきたい。

「日本」と「国家」というのは、どっちも生活に関わるものでありながら抽象的なテーマ。まずはそれぞれの報告を経て、ディスカッションを行う。会場からの質問には今日は答えられないかもしれないけど、今後生かしていく。

北田

問題提起。抽象度の高い話から。近代とは、再帰的に自己のあり方を問い直していくもの(再帰的近代)。不断の反省過程の中にある。社会学・法学その他というのは、社会についてのメタ言説。近代社会はシステムとしての自己の機能不全をチェックし続けるシステム。

それゆえ、自己反省、批評的言説は、自らを危機の中にあるものとして提示する。そこでは、処方箋を提示→処方箋の機能不全を提示というマッチポンプが生じる。私たちなりの問題意識、危機意識をもって『思想地図』を立ち上げるのだが、わたしたちもマッチポンプ的なプロセスの中に巻き込まれている。それをふまえた上で、見いだしつつある危機について話す

今日の登壇者は、同世代なのでほぼ同じような思想体験をしてきた。70年代半ばくらいまでの生まれ、思想的な思春期は80〜90年代。特に90年代以降が大きい、その思潮傾向を暴力的にまとめると、「社会構成主義」。構築主義とも言うけど、構成主義で統一する。構成主義とは私たちの本質が歴史的なもの、社会的なものであると考える立場。様々な現代思想の潮流の中に見いだせる。たとえばジェンダー。現代のポストフェミニズムでは、SEXすらも文化的構成物であるとの議論の展開(バトラーとか)。

あるいは「国民国家」が構成主義と近いものとして出てきた。ネーション・ステートという組み合わせの近代性、フィクション性を指摘する。アンダーソンとかホブズボームとか。90年代中頃からのカルスタ、ポスコロもそう。国民国家の幻想性が批判、脱構築されてきた流れ。これはいまでも続いている。

それらはフーコーの言説分析、歴史学物語論と合流しながら豊かな成果を出したが、同時にいくつかのジレンマの中に入り込んでしまった。国民国家論における構成主義の臨界点とは、ナショナリストたちの側が構築主義的なスタンスを取って換骨奪胎するというもの。ある対象の歴史的構築性を主張する構成主義的な視座が左翼に親和的とは限らない。「よりよい物語」を作れという主張も同一平面上に立つ。同一平面上のポジションの違いに過ぎない。

構成主義的な議論の空間を前提にするのではない、国家論を解放する必要。別の国家の語り方を見いだす。幻想でありつつも執拗に回帰する「国家」という問題のリアリティを捕捉していく必要。構成主義のブームが去ったから批判するということではなく、その語りが陥ったジレンマの再確認。国家論の立ち位置を変え、アクチュアリティのある国家論を展開していきたい。

理論より実証とか、理論を軽く見積もる傾向があるが、あくまで理論のラディカリズムでアクチュアリティを解放していきたい。その志向性を共有する人に声をかけた。構成主義に明確に距離を取る萱野。レーニンの思想のアクチュアリティを見いだそうとしている白井。ナショナリズム、民族、宗教の中島。2000年代の思想を再構築していく上で重要なものになると確信している。

(以下、白井、中島、萱野各氏からの報告は削除しました)

ここまでの感想

社会構成主義に対して明確に反対のスタンスを取りながら国家について議論するとき、必要とされる教科書的な知識が網羅されたという印象。乱暴にまとめると、白井は国民国家の変動期としての現在を、中島はナショナリズムの「体験」としての側面を、萱野は暴力独占体としての国家の性格を挙げながら、それぞれのやりかたで国家が実際に何かをなし得る存在であることを強調したということだろう。

後のディスカッションでは活かされなかった視点も多いので、この段階で違和感のある点を挙げておく。まず白井の言う「国民なきナショナリズムが、セキュリティ維持装置としての国家を前景化する」という主張にはおおむね同意するが、あまりに大雑把ではないか。ライシュが対象とするようなアメリカであればそれは可能だろう。だが次の中島が述べる、東アジアのナショナリズムが、特に現在においても高まっていることと、それはどう繋がるのか。あるいは国家がセキュリティ維持装置として透明化することと、ヨーロッパで民族主義が高揚し、国家が福祉体制の再構築を迫られていることとの関係はどうなるのか。日本の話を扱うのであれば、モデルの精緻化は重要だろう。

次に中島の議論。ナショナリズムをどれだけ社会構成主義的に脱構築しようと、その体験の本源性は失われないというのはその通り。どうやら後の議論でも、その本源性を用いた「方法としてのナショナリズム」で、「公定ナショナリズム」に対抗するという保守的立場を採りたいというのが中島のスタンスであるということになっていたが、言い方が抽象的すぎる。要するに、下から沸き上がる同胞感情を利用して、格差拡大でバラバラになった日本の中の資源再分配の正統性を調達したいということだろう。それについても異論はあるが、それは第二部で。

萱野の議論については、『国家とはなにか』以来の主張の繰り返し。ただ、国家が合法的な暴力を独占するのだとしても、それは政治体としての機能というより、法的システムの機能の問題なのだから、「法」の話が抜け落ちるのはまずいだろう。法の執行において暴力が要請されることと、法そのものが合法性を持つことはイコールではない。全体として、第二部の議論も含めて、こうした合法性の観点からの話がなかった印象。おそらくそれは北田の仕事だと思うのだが。