『思想地図』シンポジウムまとめ(第二部)

1月22日に行われたシンポジウムのまとめ。当日のメモを元にした主観からのまとめであるため、発言者の意図を完全にくんでいるわけではないことをご了承ください。

第二部:討論編

(質問パート以前の討議は削除しました)

質問に行きたいんだけど、あらかじめ集めたものの中では、萱野さんに質問が集中している。

萱野

社会構成主義の話が多いね。

会場から、その辺をはっきりさせろよ、と野次。

萱野

ひとことで言うと、国家というのは人々が虚構した、人間の相互作用を通じてできたものだと考える立場。そこに縛られているんだ、実体的な根拠はないんだというのが構成主義。いただいたものの中では、やっぱり構成主義なんじゃないかという質問もあったり。具体的な暴力が、DVとか相撲部屋の問題とか、まだ社会に拡散してるんじゃないかと。

暴力の独占ってのは物理的に集まっているのではない、合法的な暴力が独占されていること。国家はそれを腑分けしてくる。家庭の中の暴力は昔からあったけど、放置されなくなったから問題として出てくるようになった。適用の範囲が広がってきたということ。そうなると個人も非暴力化されていく。暴力独占体としての国家はなくならない。じゃあ社会構成主義的な国家の語りってなんだったのかっていうのが僕の疑問。

白井

マルクス主義の退潮という人も。それは正しいと思う。マルクス主義が日本のアカデミズムの中心だった時代には、国家とは何かとか考えなかった。「階級対立の非和解性の産物」でよかった。マルクス主義なき後で、混乱が生じたのでは。

北田

社会構成主義という共通言語で呼んでいたものとは、90年代半ば以降のサブカルナショナリズムの裏返しなのでは。つまり嫌韓流や、作る会と裏表で、国家の幻想性を指摘することが批判になり得た。しかし他方はよりよい幻想を追い求めていく中で、右左で違うように見えて結びついちゃうというのが今日の話。そこから抜け出したい。現在のナショナリズムの分析枠組みとして「国民なきナショナリズム」とか「方法としてのナショナリズム」とか、「合法的な暴力独占装置としての国家」という視点とかが出てきた。まとめるのは難しいけど、話の入り口にはさしかかったのではないか。

わかりにくくて難しいという意見もあったけど、そんなこと言われても困る。『思想地図』はそういうつもりで公刊するものだから。

それとは別に、今日はあえて嫌韓とかぷちナショの話をしてない。そういうのでないところから話を始めたい。原理的、抽象的なところから話したいと考えたから。今言われているJ回帰、国家はサブカルに過ぎなくなったという議論について、たとえば来月の『論座』で森さんと対談した。天皇サブカル化みたいな話なんだけど、人々の考え方がサブカル化している。それについて話してもしょうがなかろう。必要だとすればなぜなのかというのを思想史を押さえつつ原理論でやりたい。国家の話が嫌韓とかになっていることから解き放ちたいというのが、僕らの意図。

討議についての感想

「方法としてのナショナリズム」に疑問を呈する東の意図が明らかになるまで時間がかかりすぎ。あそこで脱落した人は多かったと思う。

議論に一番大きな問題があるとすれば、東の「一般意思」に対する理解だろう。おそらく東は、国民vs国家という図式が、成熟社会ではどんどん無効化して、かつ人の流動性も高まるので、国民統合を前提にした国家論とは別個の、社会問題に対する最適化プロセスを実装しておくことをソリューションにできないかと考えている。それがたとえばピーター・シンガーであり、功利主義だと。

その問題を指摘する前に押さえておかなければならないのは、東がネットの集合知形成プロセスみたいなものを、「一般意思」の生成と同じものだと見ていること。これはルソーの理解としては明らかに誤り。ネット的なものと一般意思を架橋しようとすれば、原理的には攻殻機動隊的な、ジャックイン方式での意識融合が必要になる。なぜなら、一般意思とはみんなが思うように私が思い、私が思うようにみんなが思うということで、「他者」なる存在が消失しているから。だから他者との調整プロセスも不要になる。

ルソーという人は純粋で傷つきやすいのに、まともに子供も育てられなかった社会不適格者で、だからこそ人と人との間の境界のない、みんなが一体になって営まれる世界を夢見た。東の意図を無視してサブカル的に言うと、ルソーは非常に碇ゲンドウに似ていて、だから「一般意思」の構想も、人類補完計画そっくりなものに見えてくるのだ。よって、現在のネットの集合知みたいなものと、一般意思はまったく違うものだし、そもそも一般意思はプロセス的に形成されるものではない。

ところで、この一般意思という思想は、歴史的にはフランス革命の一体感、集合的沸騰として結実し、現実にはル・シャプリエ法という、中間団体の結社を禁じる法律として制定されることになった。フランスでは、その直接民主制が世論の暴走を招き、恐怖政治をもたらしたというトラウマから、デュルケムの社会学がそうであるように、中間団体によって下から運営される社会を理想と考える傾向が強い。東の議論の問題点の二番目は、集合知形成のプロセスが暴走しがちであるという歴史的経緯をふまえた批判に、彼の構想が耐えうるかどうかについて明らかにできないことだ。それはおそらくこれからの課題なのだろう。

討議そのものの問題としては、問題提起の段階からそうであったように、東以外のメンバーが非常に近代主義的で、近代の思想を対象に研究してきた研究者で、それゆえ東の問題提起に適切に応答できなかったことだろう。これは今後の『思想地図』にとって大きな課題になるかもしれない。そのほか、細かな問題について、彼らが仮想敵にしているであろう市民派的左翼が怒り出しそうなうかつな発言が多いなあとも感じたが、これは構成主義をターゲットにした段階でもう怒りを買っているので仕方ないか。ただ、構成主義側からの反論は必要だろうなと思う。いずれにせよ、サブカルを禁じ手にした状態で、東が他のメンバーと意思疎通をはかりながら思想誌を運営できるのか。注目しておきたい。