空気とKY

asahi.com:マック「×××はいけない」 週刊誌中づり広告を黒塗り - 暮らし

ことの顛末より、それぞれの鉄道会社の言い分の違いの方が興味深い。澎湃としてわき上がる「これはまずいよ」の感情は、まさに『空気の研究』そのものなのだが、そこで「読まれた」のは、他の鉄道会社の措置ではなく、マクドナルドと自社との関係。だから証言が食い違う。ここで横のコミュニケーションがあったりすると、また別の「空気」が醸成されるのだろう。

ところで、

南海は「車内の広告を扱った広告会社が、表現があまりに抽象的で直接的だと判断した」と述べた。

意味が分かりません><

空気がらみでもうひとつ。

出でよ、新しき知識人  「KY」が突きつける日本的課題 - MIYADAI.com Blog

なんだか細かいツッコミどころが目に付く。山本七平が挙げたのは、極東裁判ではなく、吉田満戦艦大和』における、大和の沖縄出撃や、自動車による大気汚染などの環境問題だった。山本はそれを「臨在感的把握」と呼び、モノに対して臨在感を読み解く日本人のアニミズム的心性を明らかにしつつ、その支配から逃れられない原因を、啓蒙の不徹底ではなく、啓蒙主義によってアニミズム支配を「なかったこと」にしようとしたことに求めたのだった。つまりここで「空気」とは、ルーア(ヘブライ語)、プネウマ(ギリシア語)、アニマ(ラテン語)に相当する概念だ。西洋の啓蒙主義とは、我々がこうした「空気」に踊らされ、集合的に沸騰しがちな存在であることを前提に生まれてきた。

皆がその場のノリに合わせて臨在感的に判断する国民性が、共通前提の瓦解によって「空気読め」の大合唱を生み、それが「祭り」を誘発する、という流れは分かりやすいし、その通りなのだろうと思う。しかし、それゆえに全体性へのアクセシビリティを持つ「知識人」が必要という結論そのものは、山本の議論を踏まえるならば、やはり底が浅いと感じる。確かに啓蒙し得ない全体性に対する感受性を持った「知識人」は必要だろう。問題は、彼らがどのように知識人たり得るのかということだ。

山本は、『ヨブ記』における「神の絶対性の徹底」を引き合いに、両極端な、絶対化された基準との位置関係でしか自己を把握できない「空気」の醸成の危険さを指摘したのだが、そこで必要だと述べられているのは、絶対性へのアクセスではなく、儒教伝統の中で「空気」に抗し得た「水」の論理だった。「水を差す」という言葉が示す「空気」への抵抗の可能性を、西洋的な論理にも耐えうる形で見いだすことができるかどうか。知的エリートがどれほど生まれようと、彼らに「水を差す」だけのコミュニケーション能力がなければ、「この馬鹿どもが!黙って我々に従え!」という悪しき設計主義以上のものは生まれないだろう。