教育の非メリトクラシー化

久しぶりにきたなあ。

神奈川県平塚市の県立神田高校(渕野辰雄校長)が2004、05、07年度に実施した入学試験で、学力テストなどの点数では合格圏内だったのに、服装や態度などから「生徒指導が困難」として、22人を不合格にしていたことがわかった。

教育委員会は、希望者を入学させるとし、他の県立高校についても調査する。

県教委の発表によると、願書受付時や入試当日に、服装や髪形、態度を担当教員がメモにして提出。「つめが長い」「胸のボタンが開いている」「まゆをそっている」などの報告があった受験生の中から不合格者を決めていた。

タテマエの問題を抜きにすれば、こうでもしないと指導が成り立たない状況というのが、特に底辺校では続いている。教育に対して「指導力不足」が批判として投げかけられるようになってから久しいが、教員のスキルや人員に対するサポート、カバー策なしに、見かけ上の指導力を回復させようとすれば「指導できない奴を校外に放り出す」しかない。そのようにして、底辺校の中退率は上がっていったのだった。

だが、この件に関して言えば、問題なのは以下の二点ということになるだろう。すなわち

  1. 入試の過程で行われた学校側独自の「秘密調査」であり、受験者に対する公平性を欠いている。
  2. 担当教員の主観で合否が決定されたおそれがあり、「学力で合否を判定する」という入試の大前提が否定されている。

繰り返すが、こうでもしないといかんともしがたい経営的な状況はあったのだろう。しかし、10数年にわたって続いている内申書重視の傾向は、まさに「態度」や「見た目」の問題を、ある程度までは客観的かつ合理的な数値として処理できるように持ち込まれたものだったはずだ。たとえそれが機能不全を起こしていたのだとしても、勝手に独自の基準を持ち込むのはまずい。まして県立高であるわけだし。

「お受験」の際に、親の服装まで面接で見られるなどという話も聞くのだが、もしかすると日本の教育は、「中流」に向けた強い階層上昇動機を支えた「メリトクラシー」的なものから逸脱しつつあるのかもしれない。それも、特に上層と下層で。メリトクラシーの利点は、社会階層間の格差が大きく、かつ社会全体が成長段階にあるという条件の下で、「頑張ればなんとかなる」という期待を形成できる点にあるわけだが、それが健全に機能するためには、「頑張った」ことを評価する基準が公平かつオープンでなければならない。しかし、社会全体の階層上昇や、高度成長の終焉などによって「親よりも高い階層に上昇する」ことが相対的に困難になると、「上」や「下」の部分での選抜基準=「ものすごい上」と「上中下のどこにも入れないくらい下」を決定する論理が、非メリトクラシー化してしまう。「頑張ったくらいではなんともならない才能」や「頑張りとは別の部分での生活態度」が、合否を決定する要因として、強く意識されるようになるのだ。

「包摂型社会から排除型社会へ」とか言えば最近の議論っぽいが、この話、おそらく気をつけなければいけないのは、教育のメリトクラシー的前提に対する信頼が、とうの昔に崩壊していることが露わになったという点だろう。私たちが求めているのは「頑張ればなんとかなる」という「努力の成果」ではなく、「あいつと俺の間に生まれた差を、努力以外の部分で納得できる要素」なのではないか。どんなに頑張っても、「DQNなら仕方ないでしょ」と多くの人が納得するとき、そこにはその「仕方のなさ」に対する思考停止が生じているのである。

個人的には「どんなに頑張っても生活態度が悪かったら入試で落とされる社会」は、日本に限定して考える限り、「真面目なだけの役立たず」を大量に生み出すばかりでろくなことにならないと思うのだが。

日本のメリトクラシー―構造と心性

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排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異

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