文系学問の「科学性」

正直、突っ込もうかどうか悩んだというのもあるのだが。

周知の通り、はてな界隈には(俺を含め)情報技術者とか理系大学生が結構いるのだけど(以下略)

ほとんどはてブで突っ込まれてしまっているので特に言うことはない。が、この辺の断絶というのは、ステレオタイプ化しているだけに意外に根深い。実際には、理系といっても工学と医学では大きく違う(最近は両者の架橋も進んでいるのだけれど)。まして数学あたりになると、領域が理系なだけでディシプリン的な部分は人文系に近い。

他方、この手の「理系コンプレックス」「文系コンプレックス」の根っこにあるのは、実は文系の方の問題。工学やプログラムの連中に言わせれば、世の中を仕切っている「ブンケイさん」のおかげで、自分たちの仕事は正当に評価されていない、まともな予算配分がなされない、このままでは世界に後れをとる一方、ということになる。だが、文系の中でも特に哲学や文学などの人文系の連中は、そもそも学部自体が存続の危機、予算を取ってこなければ未来がない、という状況の中で、理系の連中はいいよなあと愚痴っている。これはディシプリンの問題ではなく、大学教育が左団扇の教養の塔だった時代から、経営体としての機能を求められるようになる過程で生じた、イメージの断絶に過ぎない。

じゃあ、ディシプリンの問題はスルーでいいのかというと、そういうことでもない。科学が手続きの問題である以上、文系の学問にも科学的な手続きは存在するし、理系だからといって恣意性のない研究をしているわけでもない。脳科学における「感情」と「シナプス発火」の関係は、観察者がある一定の操作的な定義に基づいて結びつけたものでしかない。そこには「感情」を巡る、私たちの「常識的な」判断が、先験的に入り込む。

そうした「手続き」に関する操作的な定義を、文系の学問でも共有しようとする試みは、社会学や人類学がヨーロッパの学問の中に陣取り始めた20世紀初頭から、一貫して行われてきた。そうした試みの中でも、近年のものでよくまとまっているのが、G・キングほか『社会科学のリサーチ・デザイン』だろう。

社会科学のリサーチ・デザイン―定性的研究における科学的推論

社会科学のリサーチ・デザイン―定性的研究における科学的推論

著者たちの関心は、定量的研究と定性的研究の相互補完が必須となる政治学において、両者に共通の「推論の論理」を定義づけることにある。R・パットナムの『哲学する民主主義』に代表されるように、この二つの研究スタイルは、どちらかがより「科学的」で「体系的」であるなどという優劣をつけられるものではない。

「定性的」研究もしくは「定量的」研究のどちらか一方にぴったりと収まる研究は、ほとんどない。最も優れた研究は両者の特徴を備えているものである。一つの研究プロジェクトにおいて、統計的手法で分析できるデータを集めると同時に、統計的分析には馴染まない重要な情報を集めることもある。社会的、政治的、もしくは経済的行動にみられるパターンや傾向は、人々の間でのアイデアの広がり方や傑出したリーダーシップの高架に比べて、定量的な分析に馴染みやすい。急速に変化する社会を理解しようとするならば、数量化できる情報だけでなく、容易には数量化できない情報も分析に含める必要がある。さらに、あらゆる社会科学において、比較は欠かせない。そして比較する際には、どの減少が、程度において「より似ている」か「より似ていない」か(すなわち定量的な違い)だけでなく、性質において「より似ている」か「より似ていない」か(すなわち定性的な違い)を判断しなければならないのである(P3-4)

彼らは、科学的な研究設計が備えるべき特徴を、以下の四点にまとめている。

(1) 目的は推論である
  記述的推論:観察を用いて、他の観察されていない事実を学ぶ
  因果的推論:観察されたデータから因果関係を学ぶ
(2) 手続きが公開されている
  手法の限界は読者に伝えられ、研究者に共有されるべき
(3) 結論は不確実である
(4) 科学とは方法である
  科学的=一連のルールを遵守した研究

社会科学の研究領域は、可能な限り科学的であろうとしても、追試や再検証が困難である場合が多く、またその時々において扱わなければならない課題の優先順位も変化するため、常に不確実性を持つ。しかし、だからといって「これこれの限定を付ければ以下のようなことが言えます」式の(お利口な社会学者あたりの回りくどいな文章にありがちな)「逃げ」を打つのはいけないという。研究の不確実性を別の人間が検証できるように、手続きをできる限りオープンにすることが必要なのだと。このあたりがいわゆる「集合知」の理想と重なってくる。

逆に言えば、集合知的なものの発想とは、科学を「真理性」の問題から、よりプラグマティックに「暫定的な知恵」を引き出すための手続き的な問題へとスライドさせるところから生まれる。いかにもおベンキョウ嫌いなアメリカ人が好きそうだな、という気もする。じゃあこれはブログなんかと接合可能なのか?もっとも難しいのは、そうした「人類の知恵に貢献する」式の理想に、誰もが同意するわけではない、という価値観の問題だろうか。おそらくそれだけではない。

むしろ、ブログという「個人が発信する場」においては、それを支える動機付けは、「みんなで知恵を出し合って全体をよりよくする」ことではなく、「ボクだけがどうにかして注目されたい!あいつもこいつもみんなバカって言いたい!」ということだったりするのではないか。それが別に悪いわけではないが、そうした自意識的な利害だけがブログを書く動機になっていると、冷静で手続きを遵守しようとする人ほど、ブロゴスフィアのやりとりは「名前を売りたい三文ライターの集まり」にしか見えなくなり、参加の動機付けを失うのだろう。

じゃあどうするか?アフィリエイトやその他の金銭的動機付けという手段もあるが、こっちはむしろ初音ミクとか、そういうコンテンツ向けの話だろう。というところで結論はない。せいぜい、大学のセンセイあたりが、「思而不学」式のブロガーたちにとって有用なリソースを、まとめサイト式に用意してくれればいいなあという程度か。