反知性主義とか優越感とか

日本に存在していたのは、おそらく知性主義ではなくて知性主義に名を借りた優越感ゲーム竹内洋はそのあたりの事情を、西洋に近いから偉いという山の手文化的なものとして論じていたっけ。その対極には、庶民の実感に根ざした伝統的な智恵を重んじる下町文化がある。現場か理論かというあり得ない対立が生じるのは、そういう淵源があるのだろう。

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

西洋的な知性主義とは、そうした優越感ゲームとは異なり、人生の意味とか「善き生とは」みたいなものの追求の上にある。その背後にはさらに、絶対的な孤独感というのがあって、人に認められさえすれば生きていける共同体−内−生を生きる私たちにはいまいち伝わりにくいところ。知が優越感ゲームになる=支持者が多いほど嬉しくなる→動員力こそが意味を決定するというシニカルな目線も、此彼ではそのインパクトたるや、だいぶ違うんじゃないかと思う。

だから反知性主義の持つ「反」性じたい、知性の中身が違うのだから比較しきれない部分があるのだが、面白いのはプラグマティックな情報整理ものって、東アジアだと日本で目立つという印象があること。中国のビジネスエリートなんかだと、自己啓発と経営哲学がベストセラーで、特に女性向け啓発本はすごくよく売れている。そのバックグラウンドまでは分からないが、実はそれは表層的な違いなのかもしれないという予感もある。というのも情報整理だろうと自己啓発だろうと、ビジネスパーソン向け言説の中では、そこに常に昔ながらの人格陶冶的な理想が紛れ込んでくるからだ。ま、それも言ってしまえば「情報を効率的に整理する」のではなく「情報を効率的に整理する術を知っている、一流に一歩近づいている私」というお墨付きへの欲望なのだろうけれど。