最適な資源配分手段としての宗教共同体

※元の文脈とは完全に切り離された純粋な感想なので、ソースとかその辺のことはパスします。

資源を最適に配分するという。配分されなかった人がかわいそうだという人がいる。配分しないともっとかわいそうな人が出るじゃないかという。私から見れば、両者の立場は少しも対立しない。かわいそうな人を減らすために「より善い/より最適な」配分をすべし、と言っているだけだから。重要なのは、誰が配分するかという話なのだ。配分されないかわいそうな人たちに配分せよ、と迫る人たちは、最終的には、自分が配分する権力を奪取しなければならないと考える。ネオリベ的な「最適」配分を批判する人たちが、いつの間にかネオリベ的に権力を奪取して「俺にとって最適な」配分を要求し始めるように。いずれ彼は別の人に、それが権力によって恣意的に決定された配分だと非難されるようになる。

解決策にはたぶんふたつあって、ひとつはトレードオフがあるから最適配分の問題が出てくるので、可能な限りトレードオフが生じないように全体のパイを増やしましょうというもの。もうひとつは、トレードオフと最適配分の根本にある、自己の利得最大化というあさましい人間の動機を解除する必要を説くもの。後者はユートピア思想であり、マルクス主義マイナス〈科学〉みたいな話だったりするのだが、ルーツは宗教共同体、特に中世の修道院での共産主義的生活態度あたりに根っこがある。ま、それだってご寄進とかもろもろのものの上にのっかったユートピアなのだけれど、ここで大事なのは動機付け解除の装置としての宗教ということ。

宗教、特に三大宗教って奴は、資源の不均等配分をもたらす世界の不条理に対する認知的処理枠組として見れば、割とよくできていて、イスラームあたりはその延長に、分け合いの共同体みたいなことを教義化している。ヒンドゥーとかはまた違うのかもしれない。このあたりはヴェーバーの仕事と、最近のイスラーム金融なんかをブリッジさせてあげないと分からないのだろう。宗教とは、要するに世界の不条理を赦し、それゆえに数少ない資源を分け合うという態度を正当化するということ。そこのところを引っこ抜いて経済学/経営学的合理性としてのみトレードオフ状況下における配分の問題やら、全然別問題の倫理的優先順位やらを議論してもあまり意味はない。

偉い先生に言わせると、その昔の帝大、それも田舎ものの多い文学部あたりでは、誰か一人に奨学金が当たれば、それを寮生みんなで分け合ったという。もちろん、田舎の村から送ってきた仕送りや野菜も同様。現在では、院生たちは自分のアイディアをパクられまいと、レジュメに「引用禁止」とか書く手合いもいるのだとか。モンスターなんとかみたいな話なのかもしれないが、ある種のリアリティはある。

ともあれ、人は、手持ちが少ないからこそ分け合うのであって、資源が豊富にあるときほど、自己利益を最大化しようとする。その意味で、「最適配分」の合理性と「分け合い」の情緒に線を引くのは、人の側の行為態度ですよね、という話。

アーミッシュの赦し――なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)

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