よく似た対立

あくまで練習問題ですよ奥様方。

例題1

  • 治安悪化問題
    • 治安の悪化はデータ上は裏付けられない。国が厳罰化の方向で介入するのは不当である。
    • データよりも体感治安の問題。データ云々は現場の親御さんの不安を無視した議論だ。
  • 地域格差拡大問題
    • 格差の拡大はデータ上は認められない。国が規制強化に乗り出すのは適当でない。
    • 実際に沈下した地方の惨状を見てみろ。データでしかものを見ないのは現場を無視した机上の理論だ。

例題2

  • 著作権問題
    • 違法コピーやiPodが権利者の不利益を生んでいる証拠はない。データもなしに国が介入することは肯定できない。
    • データが出るのを待っていたら権利者は干上がってしまう。とにかくまず何らかの対策をすることが先決だ。
  • 貧困問題
    • 安直な貧困対策が効果を上げるとは限らない。理論的・実証的な裏付けなしに性急な介入は慎むべきだ。
    • 学者が議論している間にも貧困で死の淵にいる人がいる。とにかくまず効果がありそうなものに手をつけるべきだ。

実際には全然別の話なのに、政策理念として立場を一貫させようとすると、個別のイシューにおいては望まない選択肢を正当化することになるというのはよくある話。新自由主義化も含め、近年生じている出来事には、「あちらを通すならこちらも通せ」式に、本当ならば一貫しなくてもいい(あるいは同時にやらなくてもいい)改革を進めてきた結果だ、という側面がある。

後藤道夫や大嶽秀夫などの論者は、日本の新自由主義化を正当化した論理の背後に、1968年を頂点とする新左翼運動があったことを強く意識している。「国家の介入に対して市民の自主性を尊重せよ」という主張が、「国家ではなく民間の自己責任を求める」新自由主義の論理に組み込まれたとき、たとえば「官僚批判」は「市民社会の成熟」ではなく「国家なき酷薄な競争社会」を正当化するために利用されてしまう。

こうしたことを予測して避けるのは本当に難しい。頭で考えて「まずいな」と思うことはできても、それを表明することが、本当なら推奨したい選択肢を実現するためのモチベーションまで削いでしまうことになるケースはままあるし、たとえば女性の社会進出について言えば、80年代には確実にそうした妥協が存在した*1。90年代に女性を中心に非正規化が進んだのは、80年代に新自由主義と妥協したからなのか、もっと新自由主義化を勧めて流動化するべきだったのにそれが不完全だったからなのか、悩ましいところなのだ。

稚拙な運動の論理は存在するし、机上の空論しか唱えない研究者もまた確実にいる。ブログなんかだと、そうした側面を強調する立ち位置ゲームの方が前に出てくるのかもしれない。私としては、70年代のように研究者と労働者が一緒になった勉強会なんかがもっともたれるべきだと思うし、労組の人なんかに会うたびにそういう提案をしている。自分が主催している範囲では、まだ議論が足りてないけれど、理論が一足飛びに「政治」化しないためにも、そういう地道な活動が必要なのだと思う。

戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想

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新左翼の遺産―ニューレフトからポストモダンへ

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*1:女性の社会進出を促すことは、労働力の流動化と抱き合わせになる=「働ける男性と働けない女性」の対立から「働ける男女と働けない男女」の対立に移行することだ。でもそれで社会進出できる女性は確実に増える。