「水」について

「空気」絡みで「水」の方も話題になっていたのだが、わざわざ人と絡むのも好きではないので、山本「『水=通常性』の研究」から一部引用するだけにとどめる。

さて「『空気』の研究」から「『水=通常性』の研究」まで、臨在感的把握とか、空気の醸成とか、「父と子」の隠し合いの倫理とか、一教師・オール3生徒の一君万民方式とか、それを支える情況論理と情況倫理とか、実にさまざまなことをのべてきた。では以上に共通する内容を一言でのべれば、それは何なのか。言うまでもなく、それは「虚構の世界」「虚構の中に真実を求める社会」であり、それが体勢となった「虚構の支配機構」だということである。

それは演劇や祭儀を例にとれば、だれにでも自明のことであろう。簡単にいえば、舞台とは、周囲を完全に遮断することによって成立する一つの世界、一つの情況論理の場の設定であり、その設定の元に人びとは演技し、それが演技であることを、演出者と観客の間で隠すことによって、一つの真実が表現されている。

ここまで読まれた読者は、戦後の一時期われわれが盛んに口にした「自由」とは何であったかを、すでに推察されたことと思う。それは「水を差す自由」の意味であり、これがなかったために、日本はあの破滅を招いたという反省である。従って今振りかえれば、戦争直後「軍部に抵抗した人」として英雄視された多くの人は、勇敢にも当時の「空気」に「水を差した人」だったことに気付くであろう。

そのため、われわれは今でも「水を差す自由」を確保しておかないと大変なことになる、という意識をもっており、この意識は組織内でも組織外でも働き、同時にこの自由さえ確保しておけば大丈夫という意識も生んだ。だがしかし、この「水」とはいわば「現実」であり、現実とはわれわれが生きている「通常性」であり、この通常性がまた「空気」醸成の基であることを忘れていたわけである。

以上で記して来たように、「空気」も「水」も、情況論理と情況倫理の日本的世界で生きてきたわれわれの精神生活の「糧」と言えるのである。空気と水、これは実にすばらしい表現と言わねばならない。というのは、空気と水なしに人間が生活できないように「空気」と「水」なしには、われわれの精神は生きていくことができないからである。
その証拠に戦争直後、「自由」について語った多くの人の言葉は結局「いつでも水が差せる自由」を行使しうる「空気」を醸成することに専念しているからである。そしてその「空気」にも「水」が差せることは忘れているという点で、結局は空気と水しかないからである。