責任を語るポストモダン

なんだか、東・大塚対談本を恣意的に解釈しているブログを読んで、あれっ、そんなこと書いてなかったはずだけど、と思ったのでメモ的に引用。

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東:そもそもぼくの世代って、NPOや社会企業のはしりの世代でもある。国際大学GLOCOMに所属していたときに、若くして起業したり、国会議員の秘書をしたりして本気で社会を変えようと思っているようなひとにたくさん会いました。彼らは善意の塊です。けれども、やはりある意味で危険な人々です。なぜなら、この世界の複雑さに直面していないからです。実際、彼らは、加藤容疑者に共感するニートたちの気持ちを理解できないはずです。「希望はあるんだよ、がんばろうぜ!」とか言って終わりでしょう。しかし、じつはそういう発言こそが暴力なんです。
ぼくはそういう時代環境の中で、むしろ政治的発言、イデオロギー的発言から距離をとることにささやかな良心を見出してきました。だから、前の対談でも、「公的である」という表現に違和感を表明してきた。しかしそれでも、今回の秋葉原事件では多少公的な発言をしなければならず、新しい方向も探らざるを得なくなってきた。そういうぼくの逡巡を、もう少し大塚さんに信頼していただけるかと思ったのですが(笑)

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大塚:君が20代で出てきたときに、ぼくらは順番に君のことを叩いていったよね。浅田くんあたりからはじまって、いちばん最後にぼくが、というぐらいに君はスポイルされているからこそ生き残っているわけだし、そのことに関して、僕は認めているという言い方は上からものを見ているようだけど、その中であなたがものを書いてきたっていうことに対しては、一切合切認めているわけよ。
ところが、ニート論壇の子たちは、あなたが切り拓いてきた場所にノコノコとやってきて、しかも上の世代がつくったお膳立ての上で踊っているようなところがあるわけじゃない? そこで、こんなふうに簡単に分かってもらえることが、果たして本当に幸福なのかどうか。

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東:その点では、僕は確かに後続世代に甘いのかもしれません。『思想地図』も「東浩紀ゼロアカ道場」もかなり若い書き手に媚びているように見えるはずで、その点で批判されるのは分かります。
ただそれはきっと、知的な戦略というより、とにかくぼく自身がかなり叩かれた人間なので、叩くのがいやになっているということだと思います。同じ経験をひとにさせたくない、みたいな(笑)

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東:(略)今回の事件をきっかけに、ぼくはもう一度サブカルチャーの機能について考えるようになりました。大塚さんのサブカルチャー論が刺激的なのは、大塚さんがそこに一貫してひとを「救う」機能を認めているからだと思います。大塚さんはいまのマンガやアニメは気に入らないかもしれないけれど、たぶんその部分は決して否定しない。
大塚:消費財化された、すごくレベルの低い表現で救われることだってあるからね。
東:しかし、ぼくはいままで、むしろオタク文化は違う方向に進化していると主張していたわけです。というか、そう主張しているひとだと広く思われていて、実際にそれが大塚さんに批判を受ける理由にもなっていた。
だから逆に、今回の事件をきっかけに、ネットでは早くもぼく批判がでています。「データベース消費」とか「動物化するポストモダン」とか言ってたけど、結局加藤容疑者は「動物化」できなかったではないか、と。オタク的データベースに囲まれて動物化してまったり生きるなんて、嘘八百ではないかと。
ぼくはべつに、加藤容疑者がひとり現れただけで、ぼくのいままでの主張が覆るとは思わない。だけれど、今後は、そのような反論をあらかじめ考慮しておかなければならなくなったのは確かです。つまり、サブカルチャーがひとを「救う」可能性についても言及しなければならなくなった。

以上の引用は、『リアルのゆくえ』最終章、秋葉原事件を受けて行われた対談での発言だ。ここで東は、大塚に対して一貫して表明してきた違和感、つまり「公的なものについて語る」ことの必要性を認識するようになったと語っている。本文でも東が言及するとおり、これはひとつの「転向」の宣言だと見ていいだろう。この本のスリリングなところは、最後の最後でこのどんでん返しがやってくるところだ。そういえば、伝統的価値の恣意性や「バカ親父」の叩き続けてきた宮台真司が「転向」したと言われるようになったのも、40歳前後のことだったと記憶している。ひとは、このくらいになると「下の世代」や「社会」への責任を感じ始めるのかもしれない。

ただし、両者の間には大きな戦略の差が依然として残っている。それは、下の世代に対して抑圧的に振る舞い、彼らを鍛えようとする大塚と、そうした「叩き」に意味を見出さなず、「分かってあげる」「社会に分からせる」という戦略をとる東という対立だ。この対立まで解消されていくのか、私には分からない。ただ一般に言って新人類世代は、団塊の世代の抑圧的な振る舞いが大嫌いだったと聞くし、だからこそズレるだの逃げるだの言ってたわけで、それが抑圧へと転回していくためには、それなりの逡巡もあったのではないかと思う。

とはいえ、ここでやり玉に挙げられているひとたちについて言えば、個別の論者を叩いて、それによって鍛えていくという戦略にあまり意味が見出せないというのも事実ではあろう。彼らは別に上の世代のお膳立ての上だけで踊っているわけではなく、新書バブルに伴う書き手不足など、出版業界の経営的な事情で世に出られたに過ぎないからだ。だが『論座』や『スレッド』、『m9』の末路を見ても、ネット発の書き手がそれだけで出版社の期待に応える存在になるという保証はどこにもない。あと数年は、淘汰の時代が続くだろう。その中で個別の論者を叩いても、彼らを支える期待の中から、より劣化した、あるいはセンセーショナリズムに乗っかった別の連中が出てくるだけだ。

ベタにいくなら、文字通りの「啓蒙」が可能になるような、論者同士の横の繋がりを活かしていくべきだと思う。再帰性(笑)の高まる現在では、ついつい相手の発言ではなく、相手がそのように発言する背景の方に目が行きがちだが、間違ってるものは、どうしたって間違っているし、不勉強なものはやっぱり不勉強以外の何者でもないのだから。

「大きな物語の失効」が失わせたものとは

少しだけ気になったので考えてみる。

大きな物語が失われたために人々は生きる意味を見出しにくくなってしまった」というストーリーにはもっと率直な疑問を感じる。つまり、「大きな物語のおかげで生きる意味が保証されていた」という状況がそもそもうまくぼくにはイメージできないのだ。たとえば、「大きな物語」として「冷戦構造」が挙げられることがある。そのとき「資本主義vs共産主義」のような大きな対立構造が各種の思想や制度を布置づけていた、という話を否定しようとは思わない。しかし、市井のある人物が「冷戦構造のおかげで生きる意味がみつかりました!」と述べているような状況は、ぼくにはまったく想像することができないのだ。

もちろん、政治的な人間であればその種の運動に「アンガージュマン」することで「生きる意味」を 見出すことができたかもしれない。しかし、それは、一部の人間にとってだけのことだったのではないのか?そして、それ以上に、一時の昂揚のためだけのものだったのではないか?人生という長い長い時間を過ごすうえではたして「冷戦構造」はどの程度「生きる意味」を備給しえたのか?「冷戦構造」のかわりに「高度経済成長」などをもってきても同じことだ。会社人間として、がんばれば明日はもっと豊かになれると信じていることができた?はたして人はその程度のことでたやすく「生きる意味」を確立しうるほど浅はかな存在であったか?

そうしたわけで、「大きな物語が人々に生きる意味を備給していた」というストーリーにはにわかに賛同しがたいものを感じてしまう。

まずどうでもいい突っ込みをすると、「備給」は原語ではcathexis(充当)といってフロイト心理学の用語だ。これは「ある対象に向けてリビドーを向ける」という意味で「供給」とはまったく意味の異なる用語なのでご注意。「カセクシス的」という用法ならタルコット・パーソンズなんかも多用しているので、聞いたことがある人もいるかもしれないけれど。

さて、「大きな物語」論だ。いわゆるポストモダン論や現代社会論で何度も登場する「現代は大きな物語が失効した時代である」という物言いに対して「大きな物語が機能していた時代なんてあるのか?」という問いが投げかけられることがある。「モダンからポストモダンへの変化」は、その論者が脳内で設定した出来事に過ぎず、実際には人々の生活実感や感覚は、なにも変化していないはずだというわけだ。

そうした主張はしごくまっとうだし、そういう風に言われる理由も分かる。まず、歴史的な価値観の変動なるものが実際に存在したとして、それはイチがゼロになる一回限りの変化に直面した人にとってしか意味を持たないということ。言い換えれば、既に変化の「後」を所与の前提として生きている人にとっては、「大きな物語」があったということすら認識のしようがない。この点はけっこう大事なのであとでもう一回触れる。

もうひとつは、日本に固有の事情だが、ポストモダン論が80年代のニューアカのブームの際、消費社会的なマーケティング言説と一体になって輸入されたことに原因がある。この頃のマーケティングは、大量生産・大量消費型の耐久財需要が一巡した結果、多品種少量生産体制における商品の高付加価値化という課題を持っていた。そうした状況に、「大きな物語の失効」論は有効なバックボーンを提供した。つまり、「みんなが同じ商品を買う時代は終わり、これからは各人が小さな物語に従って、めいめいの好きなモノを買うべきだ」というわけだ。おそらく宇野が参照点にしている東の『動物化するポストモダン』においても(かなりアンビバレンスをはらみつつ)、「大きな物語を失効させる消費社会」というフレームは維持されていたはずだ。この辺の事情が忘れられたままコピペのように繰り返される「大きな物語が失われた現在」という疑似ポストモダン論は、そのコピペに馴染みのない人間にはまったく意味が分からないだろう。

しかしながら、そうした日本的な事情を離れると、「大きな物語の失効」論は、それなりにインパクトのある主張だった。なぜなら、その主張の原点ともなったジャン=フランソワ・リオタールが主張したように、そこで失効したものとは「進歩」や「発展」といった左翼的価値観だったからだ。人類という種は、最高度の発展段階にむけて進歩する生き物であるという前提があればこそ、左翼は現状を否定し、とうてい実現するとは思われないユートピア(労働のない社会とか、差別のない社会とか)へ向けて人々を邁進させるための根拠を導出し得た。だが1968年を頂点とする世界的な学生反乱の盛り上がりによって、こうした「現在を否定し、いま存在しない未来に向けて大衆を指導する」タイプの古い左翼は徹底的に批判されることになる。西欧におけるポストモダン論とはそうした事情を反映した議論だった。要するに「大きな物語の失効」とは「左翼の失効」という意味だったのだ。

だから、ポストモダン論に直面して困ったのは左翼だけで、多くの人には関係のないお話だった、というのはある面で正しい。変化の「後」すなわち未来に向けられた左翼的価値を生きていない人にとっては、大きな物語の存在など認識できないとはそういうことだ。

だが厄介なことに、ポストモダン論を展開したのもまた左翼だったというあたりから、話がややこしくなってくる。この「新しい」左翼は、旧来の「未来に向けて前衛が大衆を指導する」図式を否定する代わりに、左翼が軽視してきた価値観、たとえばサブカルチャーや忘れられた伝統文化のような「ローカルな価値=小さな物語」に基づく社会運動を肯定した。それぞれが好ましいと思う社会作りに向けて、それぞれが頑張ってくださいね、というわけだ。だからポストモダニズムの一部は、特に文化の面で強い相対主義を唱える。カルチュラル・スタディーズにまで繋がる「光を当てられていない文化的価値に政治的意味を見いだす」という振る舞いは、そのようなバックグラウンドから生じている。

ポイントは、この新しい左翼が、「人類がみんなで目指すべき未来像」を否定しつつも、社会をよりよい方向に向けて変化させていこうと考える点では、昔の左翼と変わらなかったということだ。だがポストモダニズムの主張を徹底すれば、なにが「よい方向」なのかということすら自明ではない。それぞれの思う「よい社会」に向けて勝手に頑張れというのなら、歴史修正主義的な主張に基づいて社会改革を行おうとする人々も肯定しなければならないはずだ。こうしたジレンマに陥ったポストモダン左翼たちは、仲正昌樹言うところの「ポストモダン左旋回」を経て、かつての左翼と似たような主張を始めることになる。

昨今、80年代からのポストモダニズムを単なる相対主義と見なし、何の実践も行わない現状肯定の思想だと批判する声が上がるのも、そうした事情が反映されている。左旋回した後の時代からすれば、必要なのは相対主義ではなく実効的なプログラムだというわけだ。往々にして、そう批判している連中もまた自分では何もしない口だけの輩であることを除けば、その批判には意味があるだろう。宇野の「セカイ系から決断主義」という図式も、かなり甘く見てあげればそういう時流に乗っていると評価できなくもない。ちなみにポストモダニズムの流れにある論者の中でもより慎重な手合いは、その辺までを前提にした状態で「決断主義が招く恣意的な"大きな物語"の復活」を危惧しているので、もはや相対主義とは無縁だと見るべきだろう。

にもかかわらず私がまずいなと思うのは、日本におけるポストモダニズムなりポストモダン左翼の主張なりといったものは、80年代からの言説の影響で、どうしても消費社会の現状を肯定するというものになりがちだということだ。言い換えればオタクでもストリートダンスでもレイブでも何でもいいが、そこに「政治的な実践」を伴う「旧来の価値からの相対化」という振る舞いが見出せれば、学術的にも政治的にも意味があるというお墨付きを与える形で機能したカルスタは、多くの大学学部生にとって「ボクの好きなもので卒論が書ける機会」を提供するツールになった。消費社会と結合した「大きな物語の失効」論は、右翼-左翼といった話と無関係に、小さな現状を肯定する議論になってしまう。

本当なら、ポストモダニストたちがこの辺の事情をかみ砕いてあげるべきなのだろう。だがあまり勉強していない人たちにまで「大きな物語が失効した現代」というテンプレがコピペされることで、相対主義に基づく現状肯定から、ポストモダニズムの左翼性を切り離すことは非常に困難になっている。「大きな物語」への批判が内包していた、旧来の左翼のもたらすグロテスクな帰結――社会主義でもナチズムの合理主義でもなんでもいいが――を積極的に開示しながらでなければ、いまやポストモダンの主張は通らないのではないか。もちろん、そんなめんどくさいことを考えるくらいなら実践!実践!というのもまた、正しい道であるはずなのだけれど。

右に左に忙しい

首相辞職から総選挙に至るまでの道筋が見え始めたので、あらためて意味を持ってくるのだろうけれど。

小林多喜二の「蟹工船」ブームに乗る共産党の地方行脚に従来の支持層を超えて関心が集まっている。格差問題に対する取り組みなどが評価され、昨年9月以降の10カ月間で約1万人が新規に入党。次期衆院選をにらんだ幹部の演説会には1カ所平均約1300人が集まる。接点のなかった業界団体や保守系地方議員との対話も行われ、国政の長期低迷脱却への期待がふくらみ始めている。

一応、記事を見る限り新規入党した1万人が「若者」だとか「ワーキングプア」だと判断できる材料はない。蟹工船ブームだって、そもそも誰が買っているのか明らかですらない。引用部分の後に続く流れを見る限り、無党派層になっていた高齢の元共産党社会党支持層が流れ込んできているのでは、という感触もある。

だいたい、00年代の前半にあれだけ右傾化とかネット右翼とか騒いでいたのだって、本当に若者が中心だったのかどうかすら定かではないのだ。社会学者らによる「あれはガチじゃなくてネタで引きずられているだけ」論というのもあったけれど、そんなことより重要なのは、どのくらいの率でそういう連中がいたかどうかだろう。幾人かの文系の大学教員に言わせると、だいたい教室の1割程度ってところだそうで。まあそんなもんだろうな。

検証しなければならないのはおおむね次の3点。(1)00年代前半の「右傾化」、後半の「左傾化」を支えていた(いる)のはどのような層なのか、(2)両者は同じ人間によって担われている傾向なのか、(3)それは05年9月の衆院選以降の選挙動向にどの程度の影響を与えたのか。政治学者は、最低でもこの辺を検証しなければいけないはずだ。文化現象として「右・左傾化」の動機や要因を探るのも、読み物としては面白いけれど。

この問題を実証的に調査するのが困難な理由は、たとえばそれが「若者の文化現象」と考えられる限りにおいて、全国での大規模な調査を行うに足る調査費用を捻出するのが難しくなる(大した問題じゃないから)とか、そもそも科研費の基盤研究(A)、(B)あたりを取れる偉い先生にこの問題に対する理解がないとか、選挙動向と別枠に「右・左傾化」を測る指標が明確でないという技術的問題とかいろいろある。でも共産党員1万人増加、選挙はもうすぐ、という状況に鑑みれば、若手の先生方もそろそろ偉い先生を抱き込んで実証調査をやるべきタイミングだと思う。なんなら学会で音頭取りをやってもいいはずなのだ。日本の学会に予算がないのは分かっているけれど、所属している研究者が共同で取り組むべき研究プロジェクトに対する提案が少なすぎないか、というのは以前からの不満で、それじゃあ文系の学者なんていらないと言われても仕方ないよなあと。

金の斧と銀の斧

経営とは顧客の創造である。

そうすると経営者の仕事は顧客のニーズを把握し、商品を提供することではなくて、それを生み出すことであるはずだ。

「あなたが落としたのは、こちらの金の斧ですよね?」

と。

普通の斧を持つ人に銀の斧を、銀の斧を持つ人に金の斧を。

金の斧を持つ人には、金の斧を持つことの価値を提供する。



正直者はそこで「いえ、自分は普通の斧しか持ったことがありません」と答える。

「金の斧は、自分の手には余ります」とも。

彼らをして金の斧の所有者たらしめてこそ、真の経営者なのではないかと思う。



オチなし。

国家による管理売春の問題点

思想的に、とか書いたものの、もう少し理詰めで考えてみる。

そもそも私が増山氏の提案で問題だと思ったのは、性の問題ではなく、国家の介入という点だ。私自身は、性的な欲求を抱えながらもそれを満たされない人に「自助努力で相手を見つけてこい」などと言うつもりはないし(前のエントリでも売春は否定していない)、売春がイコール搾取を導く極限的な労働だとも思っていない。では、何が問題なのか。

ディベートの定石に従って、どうやったら増山氏の提案を肯定できるか考えてみよう。まず、需要があるとする。この人たちは、自らが性愛的に満たされていないことに対して鬱屈を抱えている。それは時に極端な形で暴発する可能性があるので、なんとか対策しないといけない。では、この人たちの需要はどのようにすれば満たせるか。本来ならば「あなたがどんな人でも愛してあげる」と言ってくれるパートナーと結ばれることが、最良の解決となる。だが、それは人の心の問題であるため、介入的に「あてがう」ことはほぼ不可能である(可能であるとしても、需要をすべて満たすだけの供給を期待できない)。

次善の策として「金銭による解決」がある。お金さえ払えば、一時的にせよパートナー関係を結んでくれるというサービスを購入することによって、極限まで不満が鬱積した状態に陥ることを回避できる。一発抜いてしまえば、賢者タイム突入でしょ、というわけだ。

しかしながら、それが金銭による解決である以上、手持ちの金額によって購入できるサービスの質は異なる。フリーター暮らしで借金を抱えていたりすれば、大衆店であってもソープ通いはかなり苦しい。よって、こうした人々にも「格安」で本番行為を提供する場を提供しなければ、初期に設定された課題は解決されない。

3000円という価格設定は、大衆店の10分の1といったところだろうか。一人の女性が一ヶ月に取れる客の数には上限があるから、この価格設定で売春女性の生活と、設備その他の維持費をまかなうことは非常に困難である。そこで、その不足分を担保する主体として「国家」が登場する正当性が生まれる。国家は、買春した男性から受け取った3000円と、公的な支出を元出にして、従業員女性の給料、各種福利厚生費(性病検査費の負担など)、施設維持費(シーツやタオルなどの洗濯)、その他人件費(受付など)を捻出する。女性はもちろん公募制であり、希望がある限りこの仕事を続けることができる。場合によっては、一定の「出来高給」を保証する必要もあるだろう。

自発的な意志で働く女性と、需要を持った男性のマッチングに、国家が貢献するだけなのだから、たいした問題はない、と見えるかもしれない。しかし、倫理的な問題以前に、このアイディアは経済的な問題を抱えている。まず、3000円で本番行為ができる公営売春宿ができれば、確実にその他の性風俗産業は全滅する。本番ナシの前提でヘルスなどに勤務していた女性、および風俗の従業員男性は一斉に雇用を失う。それを避けようとすれば、国家はすべての性風俗産業を国営化し、現在の市場規模のほとんどを国費によってまかなわなければならなくなる。

また、売春女性は自由意思による公募で集めるとはいえ、他の性風俗産業が壊滅した後、唯一の風俗産業となった公営売春宿に就職することは、間違いなく絶対につぶれることのない、超安定職の公務員になるということだ。結果として、民営の性風俗であれば働くことをためらったような女性が、「安定」目当てに参入してくる可能性が高まる。それを果たして純粋な「自己決定」と呼ぶことができるかどうかは、非常に微妙な問題だ。

以上のような問題から、「国家が3000円で売春できる場所を作る」ことは、非常に困難であることが分かる。では、国営というアイディアを外して考えるとどうか。参考になるのは、いわゆる「セックス・ボランティア」だろう。最近では『都立水商』あたりでも(微妙に誤解されそうな危険もあるが)紹介されていたりするので、認知も高まっているが、オランダでは公費補助がついた形でセックス・ボランティアが合法化されている。「モテない男性のために性的サービスを提供するボランティア女性」を派遣するNPOを立ち上げ、そこに公費で助成金を出すというアイディアはどうか。

これに関しては、ぎりぎりのラインで肯定できるかもしれないな、と私は今のところ考えている。ただし大きな問題がある。それは、障がい者向けのセックス・ボランティアの場合、それは四肢が不自由で自慰行為もできない人のための「介助」という位置づけなのであり、また、知的障がい者に対して間違った知識で自慰や性行為を行うことによる感染症、妊娠などのリスクを指導するという役割も持っている。設定された課題は、「性愛からの疎外によって暴発しそうな男性からガスを抜く」ことだったはずだが、さて、そういう男性をどのように抽出できるのか。自己申告制にすれば、それは結局、国営売春と変わらない。風俗が壊滅しないにしても、順番待ちの行列は大変なことになるだろう。この案では、順番を待っている間に、本当にこの施策が必要な人が暴発するリスクを回避できない。

もうひとつ、これは意識の問題に関わるので反論もあると思うのだが、売買春を奨励することが、果たして本当にガス抜きに繋がるのか。「素人童貞」という言葉は、性風俗がこれほど一般的であるにもかかわらず、それが「真の愛情」とは何の関係もないという規範と一体になっているために生じた言葉なのではないか。彼らは、売春がいけないと思いこまされたから真の愛に向けて鬱屈したのではない。売春がありふれているからこそ、性欲の解消では満たされない「真の愛情」の存在を措定したのだ。

性愛からの疎外で鬱屈された人に対して性的サービスを提供する主体はあってもいいのかもしれないが、それは国営という形でなされるべきではないし、できるかぎりそういう人を減らすような努力が先行するべきだ。性的なパートナーとは何か、パートナーになるとはどういうことか、といった事柄を、「愛」とか抽象的な言葉ではなく、具体的な問題として伝えていく場所も必要だろう。それは教育だけでなく、親から子、兄貴分、姉貴分から年下の人々へ、という道だってあり得る。結婚するとどのくらいのお金がかかるのか、男性/女性は家庭を持ったらどう変わるのか、子供が生まれると睡眠時間はどのくらい減るのか、そして、それはどのくらい楽しいのか。その手のことを、抑圧ではない形で少しずつ伝えていく努力が失われていくと、「要はヤらせりゃいいんだよ」的な短絡しか出てこなくなる。

そう考えると、「辛い人を助ける」というのは、口で言うよりはるかに難しく、大変なことなのだ。そして、多くの人はそれが分かっているからこそ「大変だなあ」と思うだけで何もしようとはしない。格差や貧困に向き合っているということは、その困難さを引き受けながら、それでも前に進もうという意思の表れなのだろう。そう思って多少なりとも敬意を払っていただけに、私はこの安直なアイディアに失望し、怒りを覚えたのだ。実践は大事だ。けれど、実践するために思考停止を許すというなら、それはもうただのファッショだ。知的権威に背を向けるというのなら、そのくらいの役目は自分で負ってほしいと切に願う。

もちろん、メンバーの多くはきちんと考えているのだろう。行かなかったけど、シンポジウムのログを見る限り、それぞれが切実に自分の問題を引き受けてそこに立っていたのだろうし、議論もあったのかもしれない。けれどだからこそ、こういう迂闊な発言は、その場で徹底的に批判されるべきだったと私は思う。もしかすると、過去の「運動」のトラウマもあって、できれば仲間内で批判合戦とかやめたい、みたいな思いはあるのかもしれない。だが、批判と非難は違う。ましてやそれは誹謗ではない。今回の件は本当に失望したが、それは別に「もはやノーフューチャー」ってことではないのだ、きっと。

誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いてるよ

行かなくてよかったという思いと、行っておけばよかったという思い半ば。

増山:性欲が殺気立っている気がする。性風俗の充実に国が保護を出して3000円で女を抱けるようにするべきでは。

赤木さんも「加藤容疑者は、女を抱きたいんじゃなくて、継続してつきあえる相手=彼女がほしかったんじゃないか」と語っていたけど、そうか、彼らも消費されない関係を求めているんだ!当たり前か。

3000エンで公共売春所を作ったらいいんじゃないかと、いう提案しかできなかった自分に反省。

この発言が事実だとすれば、そしてそれがスルーされたのだとすれば、もう『ロスジェネ』には何も期待しないし、するべきではないと思った。既存の左翼に不満を表明するのも、アートと政治を融合するのも勝手だが、搾取されている人間のガス抜きのために、別の誰かを、国家まで持ち出して暴力的に搾取してよいなどと考える人間に、貧困や差別を論じる資格はない。それが「運動」や「政治」だというなら、そんなものは犬に食わせろ。怒りを表明しろというなら、こういう連中に平気で「言論」する場を与えた「ロスジェネ」ブームに怒りを表明したい。

と同時に、現代の格差、貧困論の隆盛が、完全に80年代までの知的成果をぶち壊しにしたのだなという感慨もある。左翼であることと知的であることがイコールだった時代、特に新左翼の登場以降は、確かに「弱者探し」がメインテーマになっていたし、「誰が本当の弱者であるか」を巡る闘争だって存在した。けれど、殴られた自分は、もっと弱い誰かを殴る資格を有するなどとは、恥ずかしくて誰も言えなかった。まして、80年代の小難しい方のフェミニズムの最大の成果は、こうした「すべてを男の性欲の問題に回収する」言説の乱暴さを糾弾したところにあったはずではないのか。

自由意思に基づく売春は否定できないし、それが商業化されているのも単なる事実だ。その昔、Coccoがとある雑誌のインタビューで、米軍基地に性風俗がない以上、沖縄県民をレイプする米兵が出てくるのは必然だというようなことを答えていたりもした。けれど、それとこれとは話が違う。自己責任論にどれだけ問題があるとしても、ここで言及されている彼らが、国家の任務で強制的に性から隔離されている兵士ではない、単に周囲との比較でモテないと鬱屈している人間である以上、そのことを他者に責任を帰する余地はないはずだ。こんな身勝手な物言いが平気でまかり通るというなら、私は今すぐ自己責任論者に鞍替えしたっていい。誰がお前らのケツなど拭くか。

この件については、考えれば考えるほど怒りがこみ上げるのだが、数日おいて冷静になったら、少し思想的なところから考えてみたいと思う。

例の件について雑感

事前の予想通り「エリート」の定義を巡って議論がなされ「公共性」の方の話はほとんど深められなかったという感触。しかしその話こそが大事だったのではないか。あずまんとミヤディーの差は、エリートの定義にあるのではなく、コミットする公共性の範囲にある。そしてそれは、カンさまが言う「資源配分」としての政治の問題と密接に関わっている。

それにしてもこういう場所ではパフォーマンス能力が強く問われる。棒立ちになるくらいなら、迂闊でも何かを発言しないと文字通りアンダードッグになってしまう。その意味では、師匠をブチ切れさせてもやっぱり愛されるチャーリーと、何を言っても声の美しさで許される(内容が耳に入らない)カンさまは思想家というよりはパフォーマー。ミヤディーも言っていたが、ああいう人がいる、という風に思わせることが重要なのだろう。

そして、皮肉を言うなら、エリートについて論じるより、エリートとして振る舞うことのできる人間の才能の方が重要だということを、それは示している。真のエリートは、エリートの定義について考えたりしない。ヴェーバーがなぜカリスマについてあれほど論じたのかを、もう一度煎じ詰めるべきなのではないか。