宗教と呪術と宗教団体

この手の宗教観の比較は容易じゃないのだけれど。

痛いニュース(ノ∀`):“日本人” 宗教「信じない」7割、「魂は生まれ変わる」3割、「先祖を敬う気持ち持つ」9割…読売調査

ランキングに中国が入ってないので微妙だけど、ベトナムがもっとも神や死後の世界を信じないというのが面白い。

スレの流れ的には、神道的信仰形態じゃん、ってのと、宗教団体は信じないよっていうのが主流なのかな。この辺、宗教観というか、宗教というものへのとらえ方が分かって面白い。西洋的な志向伝統では、宗教とは信仰があるかないかという話だけでは済まない意味を持つ。世界が不条理であることを認知的に処理する枠組みが宗教なのだが、西洋人がアニミズムに対して宗教をより高度化した形態だと考えるのは、特に一神教に顕著に表れるように、世界の不条理は解消不可能だと教えるからだ。呪術やまじないは、神を、人間がお参りをすれば願いを叶えてくれる=言うことを聞いてくれる存在だと見なす。それに対して一神教の神の要求は常に理不尽であり、かつ人間にはその意図を慮ることすらできないとされる。つまり呪術よりも、神の絶対性が確たるものになっているのだ。宗教組織として洗練されているかどうかというのは、宗教と呪術の違いには関係のない出来事だ。

ま、あくまで教科書的な説明だし、高度か否か、価値的にどうかみたいな話は、してもしょうがないしするべきじゃない。むしろ気になったのは、「死後の世界」のイメージの差を、こういう形でくくれるのかどうかということ。死後の世界に転生を含める信仰と、永遠の楽園を想定する信仰では、それを信じる動機付けも、それが現世での生活を律する原理も全然違う。日本の場合、ある死後観を持っているかということが、現世での態度にどう影響しているのかを考えた方がいいのだろうな。

あー、あと祖先崇拝か。敗戦に際して柳田がイエの祖霊を救出しようとしたように、祖先への信仰とは、自分に繋がるイエの系への信仰である。死んだばあちゃんってのは、確かにご先祖様の一列に加わるのだけど、それは抽象化された存在であって、要するに大事なのは見たことも聞いたこともない「先祖」という存在を敬うかどうかという話。3代前のじいさんの戦争責任すら、今の自分の生活と無関連化できる人々にとっては、こうした感覚は意味不明なのかもしれない。他方で、見知った存在には、故人となっても尊敬の念は残るのだろう。それは先祖をどうこうするような話じゃないとは思うのだが。

柳田国男全集〈13〉 (ちくま文庫)

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反知性主義とか優越感とか

日本に存在していたのは、おそらく知性主義ではなくて知性主義に名を借りた優越感ゲーム竹内洋はそのあたりの事情を、西洋に近いから偉いという山の手文化的なものとして論じていたっけ。その対極には、庶民の実感に根ざした伝統的な智恵を重んじる下町文化がある。現場か理論かというあり得ない対立が生じるのは、そういう淵源があるのだろう。

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

西洋的な知性主義とは、そうした優越感ゲームとは異なり、人生の意味とか「善き生とは」みたいなものの追求の上にある。その背後にはさらに、絶対的な孤独感というのがあって、人に認められさえすれば生きていける共同体−内−生を生きる私たちにはいまいち伝わりにくいところ。知が優越感ゲームになる=支持者が多いほど嬉しくなる→動員力こそが意味を決定するというシニカルな目線も、此彼ではそのインパクトたるや、だいぶ違うんじゃないかと思う。

だから反知性主義の持つ「反」性じたい、知性の中身が違うのだから比較しきれない部分があるのだが、面白いのはプラグマティックな情報整理ものって、東アジアだと日本で目立つという印象があること。中国のビジネスエリートなんかだと、自己啓発と経営哲学がベストセラーで、特に女性向け啓発本はすごくよく売れている。そのバックグラウンドまでは分からないが、実はそれは表層的な違いなのかもしれないという予感もある。というのも情報整理だろうと自己啓発だろうと、ビジネスパーソン向け言説の中では、そこに常に昔ながらの人格陶冶的な理想が紛れ込んでくるからだ。ま、それも言ってしまえば「情報を効率的に整理する」のではなく「情報を効率的に整理する術を知っている、一流に一歩近づいている私」というお墨付きへの欲望なのだろうけれど。

最適な資源配分手段としての宗教共同体

※元の文脈とは完全に切り離された純粋な感想なので、ソースとかその辺のことはパスします。

資源を最適に配分するという。配分されなかった人がかわいそうだという人がいる。配分しないともっとかわいそうな人が出るじゃないかという。私から見れば、両者の立場は少しも対立しない。かわいそうな人を減らすために「より善い/より最適な」配分をすべし、と言っているだけだから。重要なのは、誰が配分するかという話なのだ。配分されないかわいそうな人たちに配分せよ、と迫る人たちは、最終的には、自分が配分する権力を奪取しなければならないと考える。ネオリベ的な「最適」配分を批判する人たちが、いつの間にかネオリベ的に権力を奪取して「俺にとって最適な」配分を要求し始めるように。いずれ彼は別の人に、それが権力によって恣意的に決定された配分だと非難されるようになる。

解決策にはたぶんふたつあって、ひとつはトレードオフがあるから最適配分の問題が出てくるので、可能な限りトレードオフが生じないように全体のパイを増やしましょうというもの。もうひとつは、トレードオフと最適配分の根本にある、自己の利得最大化というあさましい人間の動機を解除する必要を説くもの。後者はユートピア思想であり、マルクス主義マイナス〈科学〉みたいな話だったりするのだが、ルーツは宗教共同体、特に中世の修道院での共産主義的生活態度あたりに根っこがある。ま、それだってご寄進とかもろもろのものの上にのっかったユートピアなのだけれど、ここで大事なのは動機付け解除の装置としての宗教ということ。

宗教、特に三大宗教って奴は、資源の不均等配分をもたらす世界の不条理に対する認知的処理枠組として見れば、割とよくできていて、イスラームあたりはその延長に、分け合いの共同体みたいなことを教義化している。ヒンドゥーとかはまた違うのかもしれない。このあたりはヴェーバーの仕事と、最近のイスラーム金融なんかをブリッジさせてあげないと分からないのだろう。宗教とは、要するに世界の不条理を赦し、それゆえに数少ない資源を分け合うという態度を正当化するということ。そこのところを引っこ抜いて経済学/経営学的合理性としてのみトレードオフ状況下における配分の問題やら、全然別問題の倫理的優先順位やらを議論してもあまり意味はない。

偉い先生に言わせると、その昔の帝大、それも田舎ものの多い文学部あたりでは、誰か一人に奨学金が当たれば、それを寮生みんなで分け合ったという。もちろん、田舎の村から送ってきた仕送りや野菜も同様。現在では、院生たちは自分のアイディアをパクられまいと、レジュメに「引用禁止」とか書く手合いもいるのだとか。モンスターなんとかみたいな話なのかもしれないが、ある種のリアリティはある。

ともあれ、人は、手持ちが少ないからこそ分け合うのであって、資源が豊富にあるときほど、自己利益を最大化しようとする。その意味で、「最適配分」の合理性と「分け合い」の情緒に線を引くのは、人の側の行為態度ですよね、という話。

アーミッシュの赦し――なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)

アーミッシュの赦し――なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)

リアクション地獄の果てから

関係ないけど、ブログという場所では、読者が増えれば増えるほど、相互に矛盾した要求や感想が寄せられることになる。マスメディアだって同じなのだろうけれど、彼らはその矛盾をこれまでの慣行とカネの出所というロジックでもって無視することが可能だったりする。動機付け一本が問われるネットの個人メディアだと、割とその辺をついて動機を削いでしまうのは容易い。情報戦という観点から言えば、エントリの量と質で勝負すれば、リアクションにおけるS/N比はかなりの程度改善できる。ただ、情報戦そのものの動機付けはそこからは導出できないわけで、そこから先はネットワークというか、日々興味をそそられる情報にどの程度アクセスできているかということなのだと思う。

特に大事なのはネット以外の情報で、とにかく自家中毒を起こしがちなアクション−リアクションの応酬に対して、現場の知恵なり文脈の違う場所の現実なりをインクルードするのはすごい大事。エントリの内部の情報が多いことは、多くの文脈を押さえていることを必ずしも意味しない。すごく緻密に考えたと本人が思っているものほど、40字で反論できそうな穴を抱えていたりする。でも40字で反論するとまったくの曲解をされてそれに対するエクスキューズが必要になり、結局は4000字必要になってしまう。こういう状態で無限に増えていくエントリにおぼれないでいられるブロガー諸氏は本当に偉いなと思う。少なくともそれが、朝までケータイメールを終えられない中学生みたいなことになっていない限りで。

よく似た対立

あくまで練習問題ですよ奥様方。

例題1

  • 治安悪化問題
    • 治安の悪化はデータ上は裏付けられない。国が厳罰化の方向で介入するのは不当である。
    • データよりも体感治安の問題。データ云々は現場の親御さんの不安を無視した議論だ。
  • 地域格差拡大問題
    • 格差の拡大はデータ上は認められない。国が規制強化に乗り出すのは適当でない。
    • 実際に沈下した地方の惨状を見てみろ。データでしかものを見ないのは現場を無視した机上の理論だ。

例題2

  • 著作権問題
    • 違法コピーやiPodが権利者の不利益を生んでいる証拠はない。データもなしに国が介入することは肯定できない。
    • データが出るのを待っていたら権利者は干上がってしまう。とにかくまず何らかの対策をすることが先決だ。
  • 貧困問題
    • 安直な貧困対策が効果を上げるとは限らない。理論的・実証的な裏付けなしに性急な介入は慎むべきだ。
    • 学者が議論している間にも貧困で死の淵にいる人がいる。とにかくまず効果がありそうなものに手をつけるべきだ。

実際には全然別の話なのに、政策理念として立場を一貫させようとすると、個別のイシューにおいては望まない選択肢を正当化することになるというのはよくある話。新自由主義化も含め、近年生じている出来事には、「あちらを通すならこちらも通せ」式に、本当ならば一貫しなくてもいい(あるいは同時にやらなくてもいい)改革を進めてきた結果だ、という側面がある。

後藤道夫や大嶽秀夫などの論者は、日本の新自由主義化を正当化した論理の背後に、1968年を頂点とする新左翼運動があったことを強く意識している。「国家の介入に対して市民の自主性を尊重せよ」という主張が、「国家ではなく民間の自己責任を求める」新自由主義の論理に組み込まれたとき、たとえば「官僚批判」は「市民社会の成熟」ではなく「国家なき酷薄な競争社会」を正当化するために利用されてしまう。

こうしたことを予測して避けるのは本当に難しい。頭で考えて「まずいな」と思うことはできても、それを表明することが、本当なら推奨したい選択肢を実現するためのモチベーションまで削いでしまうことになるケースはままあるし、たとえば女性の社会進出について言えば、80年代には確実にそうした妥協が存在した*1。90年代に女性を中心に非正規化が進んだのは、80年代に新自由主義と妥協したからなのか、もっと新自由主義化を勧めて流動化するべきだったのにそれが不完全だったからなのか、悩ましいところなのだ。

稚拙な運動の論理は存在するし、机上の空論しか唱えない研究者もまた確実にいる。ブログなんかだと、そうした側面を強調する立ち位置ゲームの方が前に出てくるのかもしれない。私としては、70年代のように研究者と労働者が一緒になった勉強会なんかがもっともたれるべきだと思うし、労組の人なんかに会うたびにそういう提案をしている。自分が主催している範囲では、まだ議論が足りてないけれど、理論が一足飛びに「政治」化しないためにも、そういう地道な活動が必要なのだと思う。

戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想

戦後思想ヘゲモニーの終焉と新福祉国家構想

新左翼の遺産―ニューレフトからポストモダンへ

新左翼の遺産―ニューレフトからポストモダンへ

*1:女性の社会進出を促すことは、労働力の流動化と抱き合わせになる=「働ける男性と働けない女性」の対立から「働ける男女と働けない男女」の対立に移行することだ。でもそれで社会進出できる女性は確実に増える。

BIとクーポンと新自由主義

ヴェルナーの『ベーシック・インカム』は買ったまま読んでないので、あまり言及できない問題なのだけど。

BIは貧しい人々に今までの自分の「正しくない行い」を悔い改めさせると同様に、社会が彼らを搾取する免罪符にもなるのです。そのような欺瞞に加担するのはもうやめるべきではないでしょうか。何もBIで無くても、生活保護の拡充と基準の緩和、教育・医療の無償化、最低賃金の設定や雇用保険の充実など、現実的に出来る社会福祉はたくさんあるわけです。

BIってのは無償のバラマキではなくて、たとえば教育におけるBIとも言えるバウチャー制度なんかは、ハイエクによって「選択の自由を高める」ための手段として提案されたものだったはず。赤林英夫氏なんかは、日本のような初等教育における受験機会の多い環境では、バウチャーの導入の仕方によっては、それが「富裕層への補助金」になることを指摘していた(『中央公論』07年2月号)。

で、引用部分はいわゆる「ネオリベラリズムの主体化論」という奴で、渋谷望『魂の労働』の前半というのが、この「新自由主義新自由主義にコミットする主体たれという命令に背く自由がない」ことを指摘していた。で、渋谷の処方箋がヒップホップの共同体みたいな話だったのだけど、それに対して橋本努が言うのが、「そういう抵抗の共同体こそ新自由主義の補完物になるでしょ」という。

私なんかはむしろBIよりBI的理念の中に織り込まれるこの「主体化」の問題に興味がある。ネオリベ的主体になることは、確かに伝統的な文化や生活様式を破壊するかもしれない。しかし、そのことの是非を誰に論じる資格があるのか。新自由主義の主体化論が巧妙なのは、「伝統が失われることを痛みだと思うかどうか、それもその人の自由です」としか言わないことだ。それに抵抗することは、往々にして「自己決定」に対する他者の介入(あなたは伝統文化を守るべきで、だから資本主義に毒されて豊かになってはいけません*1)を引き起こしてしまう。ま、伝統文化はすべて世界遺産認定して、資本主義に毒されない生活をずっと送れるように世界中の文化的な人々の収入からまかなわれる補助金をばらまくっていう手はあるのかもしれないけど。この辺、アーミッシュっていまどうなってるのかなと思った。

ベーシック・インカム―基本所得のある社会へ

ベーシック・インカム―基本所得のある社会へ

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

帝国の条件 自由を育む秩序の原理

帝国の条件 自由を育む秩序の原理

※追記:TBにもあるのだが、私自身も社民的BIの可能性については検討した方がいいと思っていて、いろいろ調べてはいるのだけれど、ちょっとまだ具体的に語れる状況にはないなという感じ。というか調べるほど危険な点が見えてくる。このエントリは、その辺を何とか回避しようと思って考えていることをちょっとだけ書いてみたという。ただ、これ以上コストと時間をかけて調べたものをタダでブログで垂れ流しても、連合赤軍レベルの内面的姿勢を問われるゲームに巻き込まれるとすると非生産的すぎるので、この問題については暫く沈黙します。

*1:実際、欧米の活動家でたまにこういうのがホントにいるから驚く。

ネット調査にメリットはあるか

これねー、頭の痛い問題なのよ。

ネット調査は面接に比べて迅速で、経費も10分の1に節減できる利点があるが、内閣府政府広報室は「現時点で世論調査がネット調査に置き換えられる可能性は、ほぼない」と分析している。

スピードと経費というメリットがあっても、そもそもネット調査の時点でランダム・サンプリングとは言えないデータになるので、「日本人の意識」みたいなものに関してはまったく役に立たない。所得関連もそうだろう。「日本の情勢」を示す統計データとしてこんなもの出したら、比較可能性が著しく低いということで、日本の公的データは役に立たないと言われるだろう。国際比較の分野でも、非OECD加盟国との比較なんかで、この辺はいつも悩ましい問題になる。

他方で、属性が偏っていることを根拠にした推計の材料としてネット調査を使うのは、しばらくの間はアリなんじゃないかと思う。一般に公的な調査で回収率が落ちる若者や非正規雇用層なんかをきちんとフォローできるというのがその理由だ。他方で、企業がサービスで展開しているネット調査の場合、(1)回答者が主婦などに偏る(小遣い稼ぎ名目で登録し、時間のある層が回答しやすくなるので)、(2)サービスによっては政治的な質問をさせてくれない場合がある、(3)あらかじめ目標回答数を設定し、先着順で受け付けた場合の偏りがどの程度なのか推測しにくい、などの問題もある。記事にもあるとおり、質問項目と目的を絞れば、いまは明らかになっていない問題を浮き彫りにできる可能性はある。

もっとも、こんなものはあくまで手法の話だ。データがあるかないかではなく、調査で明らかにされる問いが、果たして現在において意味のあるものなのか、どのような問いと、それを明らかにする手法が求められているのかといった、根本的な論点に踏み込まないとどうしようもない領域はいくつも存在している。日本の数量調査(業界)には、個人の問題と関係なく官僚的なところがあって、最新の手法の導入や新しい問題への取り組みより、過去のデータとの比較可能性みたいなことが重視されてしまう場合がままある。やらないよりはそれでもマシだが、時として厳密な正しさよりも優先されるべき事柄というのは、確かに存在するのだ。